コロナ禍で、電車の中で行われる会話が減った。飲食店で気軽に会話を楽しむ機会も減った。マスクで表情が見えないこともあり、会話することに躊躇することも増え、場所を問わず会話をする機会自体が減ったように感じる。

でも、私はもっと話をしたい。知っている人でも知らない人でも。
会話は人と人との心をつないだり、相手の人生を知るきっかけになったり、自分の考えを深めたりするきっかけをくれたり、生きていく上でとても大事なことだと思っている。だから、私はいろんな人と話をしたいんだ。

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今から15年前、一つの出会いがあった。
あの日は、テスト終わりの昼下がりだった。
帰りの電車で、1人のおじさんに出会った。
「その……手首、痛くないかい?」
優しい声で話しかけられた。話しかけられたことに驚いて、一瞬フリーズしてしまったが、戸惑いながら「だ、大丈夫です」と答えた。

当時、私はアトピーがひどく、手首がボロボロで出血しているところもあった。制服に血痕がつかないように袖をまくり上げていたため、隣に座っていたおじさんがそのことに気づき、心配してくれたようだった。
大丈夫だと答えたが、おじさんはカバンの中から小さな白い袋を出し、おもむろに私の手に握らせた。

「これ、おじさんのだけど使ってちょうだい。あ、怪しい物じゃないよ。ちゃんと皮膚科でもらったものでね、これ、説明書も入れておくから使ってちょうだい。おじさんはぁ、もう歳だからぼろぼろでもええ。でもお嬢ちゃんはね、まだ若い。よくなるとええ。ほら持ってった持ってった」

眉の下がった笑顔は優しさに満ち溢れていた。見知らぬおじさんだったが、お礼を言って薬をもらった。おじさんと会ったのはその時だけ。その薬のおかげかわからないが、今は手首の傷がほとんどない。

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また、雨の日の帰り道でも出会いがあった。
傘を忘れた私は、濡れながら屋根のあるところまで走り雨宿り、深呼吸してからまた屋根のあるところまで走り雨宿り、と急に降ってきた雨を眺めながら帰っているところ、1人のおじさんが私の元へかけ寄ってきた。
「あの、これ、これでよかったら使ってください。あ、ただのビニール傘だけど」

走ってきたのか、おじさんの息が切れている。
「え、でも……」
見たところ、おじさんが差し伸べたビニール傘は、おじさん自身がさして使っていたもの。これを私に渡してしまえば、おじさんは傘がないように見え、戸惑っていると、
「あ、僕はいいんだ。家も近いし、濡れたって平気だし。この雨だ。濡れたら風邪ひいちゃうかもしれない。これ、ただのビニール傘だから、返さないくていいから、僕のことは気にせずにね、じゃぁ!」

おじさんは私にビニール傘を渡すと颯爽と走っていった。
「あ、ありがとうございます」
雨の音で聞こえたかどうかわからないが、深くお辞儀をしている間におじさんの姿は見えなくなった。そのおかげで私は息を切らすことなく、傘をさして歩いて帰ることができた。

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考えてみると、コロナになってしまってからは、こんな風に知らない人に急に話しかけられることがすごく少なくなった。
でも、私はあの時のように、小さな人とのつながりを大切にしたい。

名前で呼ぶことのできないあの人たちに、もう会う術がない。今どこで何をしている人かもわからない。相手だって私のことをもう忘れているかもしれない。
でも、今でも私の心の中にあの人たちはいて、私はあの時もらった優しさを今でもはっきり覚えている。顔はもうほとんど覚えていないけど、この心の底が温かくなる気持ちは忘れることがない。

だから、届けばいいなって思いながらここで言わせてもらうんだ。
「ありがとう」って。