今から10年以上も前の話。小学生の私は文房具にものすごいこだわりを持っていた。
筆箱は鉛筆を5本揃えてしまえる四角いタイプのもので、その中の鉛筆は柄と長さを揃えて筆箱に並べていた。特に鉛筆の長さには気を使っていて、例えば計算をたくさんする算数の時間には一番長い鉛筆を使い、ワークに答えを記入するだけの理科では短い鉛筆を使い、5本が常に同じ長さになるよう調節しながら使っていた。
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ある日、不注意で鉛筆を床に落としてしまった。「芯折れてないかな?」と心配しながら拾おうと体を屈める前に、後ろの席の子が先に鉛筆を拾ってくれた。
「あ!ありがとう」
これは大切に使っている鉛筆を拾ってもらった者の、正しい反応だと思う。私は拾ってもらった相手に感謝を伝えつつ、鉛筆を受け取ろうとした。だが、相手からは意外な応えが返ってきた。
「は?何がありがとうなの?」
「え?」
「これ、私の鉛筆なんだけど。私の鉛筆だから拾っただけなんだけど。何を自分のモノみたいな顔で『ありがとう』とか言ってんの?」
「……え?」
耳を疑った。私は確かに自分の鉛筆を落とした。その子が「私の鉛筆だ」と訴えるそれは、絶対に私のもののはずだった。
証拠ならいくらでもあった。私の筆箱には同じ柄でほぼ同じ長さの鉛筆があと4本も入っていたし、第一記名してあったから。
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「いや、私のだと思うんだけど。だって名前書いてるでしょ?」
「……ああ、これ?これ、いとこに貰った鉛筆なんだよね。お前と同姓同名のやつの」
「絶対嘘でしょ」
同姓同名のいとこの話は絶対に嘘だった。なぜなら私の苗字はすごく珍しい。
「ねえ嘘でしょ、それ私が落とした私の鉛筆だよ!返してよ!」
「嘘じゃないってば、証明してあげる」
鉛筆を拾った子は、さらに後ろの席の子を呼ぶ。二人は親戚同士だった。狭い田舎なのでこの二人の関係は有名だった。
「なあ!こいつと同じ名前のいとこ、いるよなあ!」
「あ?うん」
私の名前が書かれた鉛筆を握りながら、ドヤ顔で私を振り返る。終わった、と思った。いくら嘘でも、狭い教室では立派な証人だった。しかも証人は気に入らないことがあると手が出てしまうタイプだったから、二人に反論するのは怖くてできなかった。一方、私が鉛筆を落としてから拾われるまでの一連の流れを見た人はいないようだった。
悔しい、悲しいよりも、呆れた。すごく大切にしていた鉛筆を失ったのに、もう四角い筆箱に同じ長さで同じ柄の鉛筆がキッチリ揃うことはもう無いかもしれないのに。
でも私には証人がいなかったし、誰かに相談したり訴えたとしても「そんな鉛筆ごときで」「これくらい我慢しなさい」と諭される未来が一瞬で分かってしまって。
「くだらないことで」と自身の文房具に対するこだわりを否定されるのが嫌だったし、「まだまだ子どもなんだ」とバカにされるのが嫌だった。
だから涙は出なかった。泣けなかった。
ただ、人はこうして大切にしているものをひとつずつ奪われていくんだな、という絶望だけが残った。
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時が流れ、私は中学生になった。あの文房具へのこだわりがどうでもいいと思えるくらいには強くなったつもりでいた。
「泣くってダサいよね」という周りの空気に流されて、友達とは「このくらいで泣かない私」のエピソードを披露し合い、マウントを取り合っていた。小学生の頃よりも辛く高い壁はいくらでもあって、それでも泣かずに休まずに耐え、「これが大人になるってことなんだ」と言い聞かせ、いくつもの優しさを諦めた。
それがおかしいと気づいたのは、地元を離れて大学生になった時だった。
友達に泣きながら人間関係について相談された。相談内容はなんだか、「我慢すればいいんじゃない?」と言いたくなるようなものだった。
でも友達は、自分の大切にしたいものを諦めなかった。大切にしたいものを、大切にしながらみんなが納得いくところを模索し続けていた。泣きながら。すごく子どもっぽいなと思いつつも、泣きながら私に相談している友達のことが羨ましくて、同時にイラッとした。
私は大人になるために、強くなるために、たくさんたくさん諦めたのに、なぜこの友達には諦めないことが許されているのだろう。でも深呼吸して冷静になって考えれば、至極真っ当な話なのである。
何か、自分にとって大切なものを大切にすること。誰かのこだわりはくだらなくなんかないこと。大人になるために、厳しい世間を生き抜くために、非情になりすぎる必要は無いこと。
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友達の相談には上手く答えられなかった。逆に私が救われた気がする。
そうか、私はあの時、あの鉛筆を諦めなくて良かった。人に優しくすることも、優しくされることも、泣くことも、それら全部を断って生きることは大人になることと「=」で結ばれない。そう考えると落ち着いて、あの時鉛筆を拾った子についても考える余裕ができた。
あの子も、教室の外で何かを諦めざるを得なくて、でも自分を保つために必死で、強がって私の鉛筆を自分のものにしようとしたのかもしれない。中学生の私が「泣かない」マウントを取り合っていたように。
友達が泣いているのを見て、イラッとしてしまった自分が悲しい。一歩間違えたら、私は私が過去にした良くないタイプの我慢を、友達に強いてしまっていたかもしれない。
大切なものを失いそうな時、それを守るための理路整然とした言葉が出てきたら一番いいのかもしれない。でもそれができる瞬発力がなかったりした時は、泣きながら誰かに相談することを、ひとつの手段として覚えておきたい。
泣いて誰かを頼る経験は、いつか誰かに頼られた時に助けになる気がする。泣くことは心の余裕を作るひとつの強さかもしれない。
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こうして文章に起こしながら思い出したことがある。
あの鉛筆は、結局返ってきた。私にも証人がいたのだ。その人は「名前も書いてあるし、同じ柄のが筆箱に揃っているのが見えているでしょうが」と言って、私の手に鉛筆を戻してくれた。
騒然とした教室で、一連の流れをひっそり観察していたらしい担任の先生だった。
泣かない代わりに失ったものも、返ってくることがあるみたい。この世の絶望ばかりを覚えなくとも、大人にはなれるっぽい。