小学校5、6年生の頃、紙に描いた自分の絵を人形代わりにして遊んでいた。
当時読んでいた漫画のキャラクターをトレースし、自分好みの髪型に描き直す。絵に沿って切り取る。肩には切込みを入れておく。同じように人形の身体にあわせた衣装を紙に描き、衣装の肩の部分にも、細長い突起を作っておく。そうすると人形本体の肩に突起を差し込み、自由に着せ替えができるのだ。

当時は江戸時代の歴史に強い興味があって、将軍家のお姫様、という設定があった。私はあくまで彼女の生活を観察する存在で、彼女に話しかけたり、彼女が話しかけたり、という遊びはしなかった。

彼女を手にするだけで、華やかなお城での生活が頭の中で自動再生された。大きな空箱の中に、布団代わりのティッシュペーパーを敷いたり、ペットボトルの蓋を桶代わりに使ったり、こまごましたもので彼女の屋敷をしつらえた。私の身の回りにある日用品は、全て彼女の調度品になる可能性を秘めていた。

小学校高学年になっていながら、自作の人形で遊ぶ姿は、両親をはじめ大人には奇妙に映ったと思う。実際、ゲーム機器が次々に開発され、同級生たちは新しいおもちゃに夢中になっていた。
それでも、私が選んだのは彼女だった。私にとって、彼女は辛い現実から逃げ込ませてくれる避難所のような存在だった。

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私の小学校高学年の日々は、どんよりとした曇り空のような日々だった。クラスメイトにどうしても馴染めず、誰とも一言も話さず帰宅した日すらあった。休み時間はやることがなさすぎて、全身を耳にしてクラスメイトの会話を聞いて時間をつぶしていた。

社会ではリーマンショックが起こり、ニュースは職をなくし途方にくれるスーツ姿の人々を繰り返し放送した。大人たちが見えない未来に不安と焦燥感を抱え、じりじり生きているのが子どもの私にも痛いほど伝わってきた。それまで正解だったもの、目指すべきと思っていたものが崩壊していく感覚は、子どもにも十分すぎるほど共有されていた。

彼女で遊ぶ時間は、私にとってままならない現実から目を背けられる時間だった。人形遊びの醍醐味は、全て想像でまかなえてしまうことだと思う。自分が起きてほしくないことは起こらない。全ての決定権は自分にある。

しかも、彼女が生きているのは過去の時代だ。教科書や本を読めば彼女にとって何が起こるのか知ることができる。わかっていることしか起こらない、という感覚は私をひどく安心させた。彼女に起こる過去も未来も知っている神様のような存在で、彼女を観察することができた。

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中学校に入学し、部活や勉強が忙しくなるにつれて彼女との関係は薄れていった。
中学生のある日、久しぶりに彼女の邸宅である空箱を開けた。ほこりが指を白く汚した。
彼女は変わらずそこにいた。彼女を手にしても、以前のような歴史絵巻は、頭の中で自動再生されなかった。彼女は変わらないのに自分だけが成長してしまった、という自覚が鋭く胸を刺した。

彼女は役目を終えた。私が彼女を必要としなくなったから。私は自分で自分を支え、不確かな未来を歩んでいかなければならない。
ありがとうと、彼女に心の中で感謝を伝えた。彼女に話しかけたのは多分初めてだった。
ただの紙切れに戻ってしまった彼女を、そっと空箱にしまった。