今年の2月、私は大学院の受験をした。大学を卒業してから6年の月日が経っていたものの、ずっと「もっと学びたい」という漠然とした気持ちがあった。興味のある分野やテーマは多かったものの、今ひとつ現実性や決定打に欠けていたこともあり、勤め人を続けていた。
やっと決心がついたのは2年前。細かい研究テーマはまだ見えていなかったものの、受験に向けての調整を始めた。

そして迎えた受験当日。筆記はがむしゃらにやったが、面接が酷かった。いや、酷いなんてものではない。いかに私の研究計画が甘く、私は大学院で学ぶに相応しくないと自分でも本気で思った40分間だった。
終わって教室を出て、とぼとぼ歩いて向かった先は銭湯。これはほぼ衝動だった。衝撃を受けた脳がなんとか考えついた癒し先だった。

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温かい湯船に浸かると、自分の不甲斐なさや悔しさで涙が出る……と思いきや、出ない。
もはや泣いてすっきりしたくて、今日の面接の出来を脳内リピートしたが、全く瞳は潤わない。これ以上はのぼせてしまうと思うところまで頑張ったが、結局お湯の熱さに耐えきれなくて銭湯を後にした。

少し困惑しながら頭の整理をするために近くのカフェに行き、ラテを飲みながら冷静に今の自分の気持ちと向き合った。
泣かないということは、自己ベストを出し切ったということなのか。それとも、もう次に向けて気持ちがポジティブになっているのか。職場には3月で辞めることを伝えていたし、4月以降の居場所を探さなければならない。ただ、来年またチャレンジするのかも見据えた上でなければ、その居場所も探せないな……なんて思いながら千代田区、国政お膝元の街を歩く人々を眺めた。
お昼時なのに、みんな表情暗いな。この辺り美味しそうなお店多いのに。でも、さすがに綺麗な身なりの人が多いな。

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ここで気がついた。
私、全然1ヶ月先に職がないことを問題視してないじゃない。もはや、みんなが働いている平日の真昼間でも焦りなんてなくて、ただただ忙しなく頭を動かすことを心から楽しんでいる。
なんで、こんなに涙に結びつかないのか。それは、面接で極限まで頭を動かしたことに心地よい疲労感と達成感を感じているからだった。結果は二の次で、自分の先入観を指摘されて、至らない点を浮き彫りにされたことが……嬉しかった。
私ってここまでマゾだったとは知らなかったなーと、新たな自分を発見して、マスクの下に引き笑いを浮かべながらカフェを出た。

その1週間後に合格通知が届くことは全く予想していなかったが、それまでの間も職を探すでも、誰かに嘆くでもなく、当たり前に日常を送っていた。
遂に泣くことはなく学生17年目に突入したわけだが、大学院に入ってからは泣きまくっている。それは、同じだけの熱量を持っている人と真剣に社会について考えた時に生まれる感情のスパイク。
あの面接の日には泣かなかったが、やはり感情が入ると私はよく泣く。今は、1年後に向けて執筆する修士論文の下調べをしているが、やはり感情が先行する。
でも、きっと発表の際にはまた泣かないのだろう。色々指摘されることが、私の悲しみではなく知的好奇心の刺激に変換されるから。

こんな自分、意外と嫌いではない。でも、やはりこんなにマゾなことを意外に思う今日この頃である。