母と父が離婚したのは、私が6歳の時だった。小学1年生の夏休みの最中に、父の実家の石川県の田舎町から母の実家の横浜に引っ越した。

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当時なぜ離婚したのか知らされていなかった私は、小学校1年生の秋から社会人になるまでを横浜で過ごした。山手線沿いにある専門学校に通い、都心にオフィスを構える会社に入社し、生粋の都会っ子になった。言葉の訛りも全くなく、今では横浜への愛着の方が強い。

しかし私は、石川に住んでいた時の思い出から家の間取りや町の道まで、すごく鮮明に覚えている。

父方の祖父は孫の中で一番に私を可愛がってくれたこと。家に併設されている紡績工場はその祖父の会社で、幼い私は事務室によく出入りしていたこと。取引先であろうお客さんがいても、祖父は私を膝に乗せて仕事をしてくれるほど優しかったこと。

家の1階に祖父と祖母が住んでいて、リビングと寝室の他に長い廊下と大きなお風呂があった。父、母、私は2階に住んでいた。2階も3LDKだったと思う、そこそこ広かった。
家の外には大きな庭があって、いくらでも走り回れた。家の裏には広い畑があって、それは曽祖母の土地だった。とにかくトータルで見ても本当に大きい家だったのだ。
少し歩けば周りには歳の近いお友達が住んでいて、遊ぶのにも困らない。
その家も町も、何不自由無かった。幼い私にとって世界の全てだった。

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高校の入学式の帰り道、珍しく母と2人きりでご飯を食べた日に「パパとなんで離婚したの?」と思い立って聞いてみたことがある。「パパが浮気したからだよ」と母は答えた。
高校生になった私にだからこそ、そんな風にサラッと答えられたのだろう。私はすごく驚いたけれど、なぜか驚いてないふりをして衝撃的な母の話を聞いていた。

父が浮気をしたことが原因で離婚したこと。そして祖父も、父が幼い頃に何度も浮気を繰り返したこと。その事実に幼い父は傷ついていたのに、自分も結局浮気したこと。母はそれがどうしても許せなかったこと。そんな話をした最後に、母は「パパやおばあちゃん達に会いたかったら、自分の足で会いに行っても良いんだからね」と笑顔で付け足した。
知らなかった情報が一気に耳に入ってきて、心臓がバクバクしていたことを未だに覚えている。

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社会人になってお金が貯まった頃、ひとりで石川に帰ることにした。いつか帰らないといけないと、漠然と思っていたからだ。
祖父は癌で亡くなり、経営していた会社も潰れて、祖母はひとりで別の町に住んでいるとのことだった。それでもあの大きな家は別の人が買ったらしく、まだ無くなってはいないと聞いて家も見に行くことにした。幼い自分が育った町に、久しぶりに訪れるのは不思議な感覚だった。

そして家に向かったその日、家を見て私は驚愕した。なぜかというと、その家は全然大きくなかったのだ。小さかった私にとって大きかっただけで、田舎にある少し立派くらいの一軒家と、小さな町工場だったのだ。

家だけでなく町をぐるっと歩いてみても、畑と田んぼしかなくて、すごく狭くて小さな町だった。歩きながら、家を見ながら、私は涙が止まらなかった。小さくて何もわからない私にとって、見えていたものは私の都合の良いようにしか見えていなかったと知ったのだ。

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すごく大きくて広いと思っていた家は、世田谷にある一軒家よりずっと小さいこと。
家の庭だと思っていたそのスペースは、車が全然来ないだけの駐車場だったこと。
私にとって全てだったその町は、すごく小さな田舎町だったこと。
世界一優しいと思っていた祖父も父も、祖母や母を傷つけていたこと。
何も知らなくて、何も分からなかった。大人になってようやく気づいた、その世界はすごくすごく狭い場所だったのだ。

あの町で育った記憶は完全に私の一部になっている。愛してくれた祖父も父も嘘ではない。幻想でもない。子供の頃の記憶も大人になって知った真実も、どちらも現実なことに間違いはない。それでも、あまりにも自分がかけていたフィルターが厚すぎて、あまりにも加工し過ぎていて、それに気づけなかった自分がものすごく悲しかった。
あの町は、私にとって唯一無二の故郷だ。絶対に忘れられない、忘れてはいけない大切な場所だ。