私には大好きなゲームがある。
そのゲームはとあるアーケードゲーム。つまるところ、基本的にゲームセンターでのみ遊ぶことのできるゲームだ。
沢山のファンからの愛で支えられ、10年単位で続いたこのゲームは、今はカードが切れ、ネットワークだけでなく、ゲームに用いられているもののあらゆるサービスが終了しており、都会のほんの一部のゲームセンターの方が有志で稼働を続けてくださっているのみ。これも誰もやりに行かなくなったり、筐体が壊れてしまえば終わってしまう、とても儚いものだ。
もう田舎の一角では遊ぶこと自体ができなくなってしまっているものの、今でも変わらず大好きなゲームなのだ。
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ところが、私は一時、このゲームのことを非常に嫌に感じて荒れ狂ってしまっていたことがあった。幸せそうなファンも、ゲーム運営自体も、丸ごと全てがとても嫌だった。
ちなみに、私はこのゲームを稼働当初からずっとプレイしている……今は"していた"という言い方が正しいだろうか?そのくらい長く連れ添ったゲーム……まるで恋人との倦怠期とどこか似ているこの感覚を覚えたのは、非常に極端な情報量の格差や、大好きなキャラクターへの差別のような状態からだったのだろうと今となっては思う。
あの時は大好きなキャラ、最近の便利な言葉で言えば、所謂「推し」の周りだけ、いつも異常なほど情報が出てこなかった。時が経てど、意見を送れど……改善はほとんどなく、いつしか情報量の多いところとの格差は天と地以上になっていたのをよく覚えている。
更に、「推し」の持つ、ちょっぴり特殊な能力によって他のプレイヤーから避けられたり、直に悪く言われた事も何度だってあった。あの時は「推し」に関して、マイナスな声や態度ばかりを見かけたのだ。これがこのゲームを続けていた中での一番の苦痛だった。
少しでもこの苦痛を誰かにわかってもらいたかったけれど、私の好きな「推し」を本当に好きな人や真摯に見てくれている人があまり居なかったからか、この苦痛を分かってもらえることはずっとなかったし、稼働が終了した今もありえないと思っているくらいだ。
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そんな中、新しい情報が出るだけで一喜一憂……ではなく、一憂一憂し、「推し」とその周り以外の情報が出てくる事さえ嫌に感じていたゲームの稼働がやっと終了した。
嫌な思いを引きずったままお別れなのだろうと思っていた。こんなに嫌な思いを抱えたまま終わるのかと残念に思っていた……ところがどうだろう。
終わってしまった途端に、ゲームへの愛や思いが急に復活してしまった。
色々なことを思いつき、呟き、以前ほどの熱量ではないものの、創作を沢山した。
恐らく、情報量の格差がなくなったことが、「推し」が嫌がられる現象を一切目の当たりにしなくなったことが、熱量が復活した主な要因だろうな、と感じた。
これがとても心地よかった。もう誰も「推し」を嫌悪してくることはないし、「推し」及びその周り以外の新しい情報が出て、喜んでいる人を横目に憂鬱に思うことがない。
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気の遠くなりそうなほどに長い長い時を経て、ようやく私は嫌な思い、辛かった思いを昇華させることが出来た。今ではこのゲームのことについて、嫌だったことも喜ばしかったことも、ゆっくりだけど言葉に出来るし、心身共に安定して活動が出来ている。
稼働はもう終わってしまったものの、復活してきた強い愛は、きっとこのまま長く長く続いていくのだろう。