その昔、わたしは重度の強迫性障害だった。
そのおかげで学校に通えなくなり、入院を余儀なくされた。
主な症状は、不潔恐怖。
とにかく、何かに触れた後は、自分が汚れてしまった感覚が拭えない。何かに触れた後は「汚い汚い汚い汚い」と、その場所を洗うまで頭がいっぱい。それ以外のことは一切考えられなくなる。
何かに触れた後は、必ず洗わなくてはいけない。それは、携帯、ドアノブ、コップ、椅子……すべての物が対象だった。電車で手すりもつり革も触れなければ、座ることすらできなかった。学校の椅子と机が汚いと思い始めてから、通うことも難しくなった。
1日に何百回も手を洗い、皮膚はボロボロになったし、洗っても洗っても汚い自分が気持ち悪かった。
すべてのものが汚くて怖くて気持ち悪くて、見えない恐怖に怯えながら生きていた。
◎ ◎
そんな生活も、長くは続かなかった。
明らかに言動がおかしかったわたしは、ある日病院に放り込まれた。
マメ知識を教えてくれる「豆しば」をみなさんはご存知でしょうか?
ある日、CMで「ねぇ知ってる?キスをすると1秒間に2億個の細菌が口の中を行ったり来たりするんだって」と、豆しばが言っているのを見てしまった。
そう、見てしまったのだ。
潔癖症の「汚い」とは、自分が思い描く「汚い」ことが「汚い」のであって、汚いと本人が感じてさえいなければ何も汚くない(と思って恐怖を感じることなく過ごすことができる)。
このときわたしは、キスとはなんて気持ちの悪い行為なんだろうと思ってしまった。それ以来、キスという単語を聞くと「2億個の細菌が行ったり来たり……」とパブロフの犬みたいに連想するようになった。
わたしは一生、2億個の細菌が行ったり来たりするような気持ちの悪い行為はできない。そのときはそう思っていた。
だけど、わりとすぐに事件は訪れた。
◎ ◎
入院中、仲が良かった男の子がいて、その子とは看護師さんたちの目を盗んでよく手を繋いでいた。
その子の退院が決まった。当時は携帯を持っていなかったが、持っていても精神病棟に携帯は持ち込めない。顔と名前しか知らない彼と、小学生だったわたしが、いつになるかもわからないわたしの退院後に、外で会える確率はあまり高くない。
そんな彼が「退院する前にキスがしたい」と言った。
わたしの頭の中は、2億個の細菌でいっぱいになった。
どうしよう……2億個の細菌が行ったり来たりするような気持ち悪くて汚らわしい行為に、わたしは耐えられるのか……。それから退院まで、毎日毎日、頭の中で2億個の細菌と戦い続けた。
彼が退院する前日に決めた。彼に「してもいいよ」と言った。
きっと、1人で電車に乗って好きなところまで行けたり、アルバイトをして自由に使えるお金があったり、メールやLINEを交換することができていたら、絶対に絶対にしなかったと思う。もう一生会えないかもしれない。それが決めた理由だった。
◎ ◎
不潔恐怖でいっぱいだったけれど、その瞬間は一瞬だった。
別に舌を突っ込まれたわけではない。当時はキスに種類があるなんてことも知らず、頭の中は2億個の細菌でいっぱいだった。
唇が触れた瞬間に彼から離れ、階段を駆け下り、洗面所に向かったわたしは、たどり着くなり2億個の細菌の洗浄を始めた。めちゃくちゃゴシゴシ洗い続けたことは、今でも鮮明に覚えてる(というか、忘れられない)。
その後、彼はとても悲しそうな顔をしていた。本当に可哀想なことをしたとは思う。
だけど、「潔癖症なのにしてあげたんだからいいじゃん!感謝してよ」と、わたしは思ってる。あれはまぎれもなく、小学生だったわたしの勇気の思い出。