“本当は大学院に行きたい”という言葉を、今まで口にすることができなかった。
「お金がかかるし、みんな就職するし、大学院に行って何の意味があるの?」と親は言う。
「お金が心配なら、2年間働いたあとに社会人の枠で大学院に入り直すこともできるのよ」と大学の先生は言う。
「奨学金を借りて大学院に入ればいいじゃん」と奨学金を借りずに大学院に入学する友達は言う。
でも私は思う。
「意味の有無」だけで私の夢を切り離しないでほしい。
単純に「2年間働いたあとに」なんて言わないでほしい。
「奨学金」という言葉を軽々しく使わないでほしい、と。
◎ ◎
大学院に入る意味は私自身が見つけ出すことであって、他人が介入する必要はない。
お金の面が心配なら、大学4年間で貯めたアルバイトのお給料が手付かずで残っているから親が気にすることはない。私は大学院に行きたいから、欲しい物も買わずにひたすら貯金してきた。
そんな私に「大学院に行く意味」を問うても、それこそ意味のないことだ。行きたい気持ちは否定されようと変わらないのだから。
大学の先生は「2年間働いたあとに」なんて簡単に言うけれど、社会の一員として働くことはそんなに容易なのだろうか。
2年間働くうちに自分がかつてやりたかったことを忘れてしまうかもしれない。
「これで良かったのか?」と考えてしまうかもしれない。
私は自分のやりたいことが掻き消され、社会の中でもみくちゃにされる方が余程恐ろしい。
大学の先生は、果たしてそのような経験をしたことがあるのだろうか。その経験をした上で「2年間働けばいい」と言っているのだろうか。
私は大学の友人に大学院に関する相談をすると、「奨学金を借りれば大丈夫」と言われる。
果たして本当に大丈夫なのだろうか。
友達は奨学金を借りたこともなく、大学院に行っても借りずに過ごす。
けれども奨学金は「借金」だ。いつか返さなければならない。
給付の奨学金もあるけれど、一体どれだけの人がその奨学金を受け取ることができるのだろうか。給付の奨学金があるだけ有り難いけれど、競争率はきっと高い。
私より頭が良い大学へ行く人は取れるかもしれないが、私は無理だと思ってしまう。
何より「奨学金があること」でお金の心配をしながらずっと大学院で研究をすることになる。考えるだけで息が詰まる。窒息しそうだ。
こんな風に周りとの壁がありすぎて私は次第に大学院に行く方向よりも、一時的に就職する方向に行きかけたことがある。
就職すれば親は喜ぶ。大学の先生も「それでいいんじゃない?」と言う。友達はどこか悲しそうな顔をしていたけれど、「すももが決めたなら…」と私が就活することを止めなかった。
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でも私は心の中でずっともやもやを抱えてきた。
「このままでいいのか?」
「こうやって夢を捨てるのか?」
「今やらないでいつやるんだ?」
もやもやするばかりでずっと気分は晴れなかった。だから決めたのだ。
「私は大学院に行きたい」と面と向かって言おう、と。
また拒絶されたらどうしようとか、反対されたらどうしようとか、何か言われはしないかとか、マイナスな言葉が頭の中を占領する。
でも私は大学院に行きたいことを伝えるために、ありもしない勇気を絞りだした。
伝えた相手は私の一番身近にいる人、両親だ。
「やっぱり、私、大学院に行きたい」
そう言ったとき、両親はしばらく黙っていた。「またその話か…」といったような顔をしていた。
でも私はそんな両親の顔なんか気にも留めずに説得した。やりたいことがあるんだと、そのために大学院に行くのを許してほしいと。
大学院入試を受けたからといって合格するとは限らない。落ちてしまう場合もある。そうなったら私の生活は今までとは全く異なってしまう。だからこそ親は反対していたのかもしれない。
でも私の話を聞いた両親は「受験していいよ」と言った。
◎ ◎
「言ってみるもんだな…」とその時思った。
今まで他人の言葉ばかり気にして、大学院の道を捨てようとまで思った。
でも諦めきれなかった。だから勇気を出して両親を説得した。
両親はそれを認めた。
私の行く先はまだ分からない。
受かるか、落ちるか。それは今後の自分に委ねるしかない。
でも、これだけは言える。
諦めずに勇気を持って両親を説得した私は、今までの自分よりもずっと立派だった。