茶碗蒸しの中にわずかに入っている松茸を食べ、しいたけより味気ないと思う。マグロの刺身より焼鮭がおいしいと言って、母に非難の目で見られる。粉になったトリュフはむしろかかっていない方がおいしいと思う。大学卒業時の懇親会で食べたフォアグラで胃もたれを起こす。
20数年間生きてきて得た美食歴である。この大したことのない美食歴を経て、高級料理は案外大したことがないと思っていた。

私の舌が悪いのか、所詮、庶民にはわからないものなのか。とにかく、珍しいものを食べても強い感情に揺さぶられることがなかった。今も昔も、私の好きな料理は豆腐とわかめの味噌汁である。一つの例外を除けば。

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数年前、中国に旅行へ行った時――この時点で、私が何を食べたかわかる方もいるだろう――のことだ。

友達とある店に入った。
店内はほの暗く、落ち着いた雰囲気だ。店員がやってきて、適当な席に案内される。店の奥に目をやると、客席を挟んで厨房と窯があり、白い肉塊が吊り下げられているのが見える。
ここは何が食べられる店なのか。友達が見つけてくれたところなので、私にはちっともわからない。友達が注文してくれ、店員が去ったところで尋ねる。
北京ダックが食べられるところだよ、と軽々しく友達が言う。
とんだ高級料理店ではないか!後の勘定が怖い。思いのほか不味かったらどうしよう、全部食べられるか?私の心中は穏やかではなかった。

動揺しているうちに、店員が皿を持ってきた。
皿の中には、皮が濡れた飴色に輝く丸焼きが鎮座している。皿がテーブルに置かれると、肉の表面に楕円形に切れ込みが入っているのが見える。店員がそこを開けると、湯気をふかしながら白い肉が現れた。
白いといっても、スーパーに売っているささみのような白さではない。湯気越しに見た肉は、血の通った上品な白さだった。店員がその白に箸を伸ばし、一切れ持ち上げる。もう片方の手には、米でできた餃子の皮のようなものにタレをかけたものを持っている。その上に肉、葉などを置いて巻き、私に手渡してくれた。

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包みはほんのり温かい。一口かじる。思わず目を見開いてしまう。
肉の旨味という旨味が肉に染みついているようだった。肉は柔らかく、旨味が口の中で踊って溶ける。飴色の皮はカリカリ歯ごたえが良く、ソースの味が染みわたる。
次の肉巻きをさっさと作って食べる。3回目以降は米の皮を小さめに巻いて一口で食べる。スナック菓子のように止まらない。止めたくもない。友達の分もお構いなしに食らいつきたい気分だったが、辛うじて理性で抑えた。

ああ、長い歴史の中でこんなおいしいものを作ってくれて、中国人よありがとう。鶏肉をここまでおいしくしてくれてありがとう。皮をこんがり焼いてくれてありがとう。
気が付けば、そんな言葉を何度も心の内につぶやいていた。人生で最も食事に感謝をした瞬間だった。このときの「ごちそうさま」ほど、本質的な意味でつぶやいたことはなかった。

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さて、怖かったお勘定は、二人合わせて200元くらいだったはずだ。当時の物価基準で、ファミレスや普通のレストランを利用した場合、贅沢を抑えれば2日分の外食費が十分賄える額だ。当時の貧乏学生旅行にとっては、少々手痛い額だった。

帰国後、中国人の友達に、北京ダックを食べた事、それが感動するほどおいしかったこと、200元もした、さすが高級料理だ、などと意気揚々と語った。今思えば恥ずかしい事なのだが、当時はこの感動を誰彼構わず話したかったのだ。
案の定と言うべきか、友達からはこのような主旨の事を言われた。
「200元代の北京ダックは安い部類だ。400元以上する北京ダックもある」
400元の北京ダック!200元で幸せな気分になれたのだから、きっと昇天するに違いない。