皆んなはいつまでサンタクロースを信じていたのだろう。
別の言い方をすれば、皆んなはいつまで大人の遊びに付き合ってあげていたのだろう。

少なくとも私は、ある年齢から「この嘘に付き合ってあげなくてはならない」という空気を読み、謎のプレッシャーを持つようになった。
大人が思う"子供らしい子供"を演じることが私の使命なのだと思い込んでいた。そして、それを無事にまっとうしなければ、見放され、生きる道は無くなるのだと信じて疑わなかった。
家族という閉鎖的な檻の中で生き抜くことは困難な道である。子供は無力だ。

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だが、そんな私も毎年クリスマスの時期になると、未だにスーパーに並ぶクリスマスコーナーに目が輝いてしまう。
ブーツ型のお菓子が詰まった商品や、キャラクターが描かれた大きなお菓子の缶ケース等、この時期にならないと出会えないお菓子たちに心は躍ってしまう。

それには私が小学校に上がって直ぐに亡くなった祖父が影響している。
祖父は口数が少ない男だったが、年齢の割にハイカラなことが好きな人間であった。祖父の家に遊びに行くと、必ず変わったオモチャやお菓子を与えてくれた。
春には花見、夏には庭でプール、秋には庭でキウイ狩り、そして誕生日やクリスマスという一大イベントとなると、料理好きの祖父はより腕を振るって豪華な食事を用意し、私にたくさんのプレゼントをくれた。
そして、祖父の家には大人の身長ほどある大きなクリスマスツリーもあった。
私はこれが大のお気に入りであった。

だが、祖父が亡くなってからは巨大に見えたクリスマスツリーも年々自分の身長に近づいていき、私の感情を嬉しさと寂しさで忙しくさせた。
祖父がいるクリスマスはとても温かかった。

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私は今までに、家族と、友達と、恋人と、仕事と、クリスマスを過ごしたことがある。
だが、祖父が開いてくれたクリスマス会が、未だに私の中の1番素敵なクリスマスなのだ。

私はこの先、自分が結婚をするという未来を選び、子供を産むという選択と縁に恵まれたのなら、自分も毎年家族でクリスマスを祝わなければならないのだろうか、と恐怖が湧く。
家族というものを作ったのなら、クリスマスは家族との拘束時間となるのだろう。
私はそれを考えるだけで憂鬱で窮屈で苦しくなる。
だが、その窮屈を人は幸せと呼ぶのかもしれない。人は、不自由が大好きな生き物だ。

しかし、数年続くであろう長い"サンタごっこ"が、私にはどうも務まる気がしない。
自由に過ごせるクリスマスが、若くてバカができるクリスマスが、自分の人生にあと何回あるのだろうか、と考えてしまう。
だが、そんな未来の心配はするだけ時間の無駄なのだろう。
だから私は、今をただただ楽しく過ごす。
これは今が楽しければ良い、という話とは少し違う。
楽しさをコツコツ積み上げているのだ。

さて、今年もそろそろ楽しいクリスマスの準備に取りかかると致します。