自撮りする時、カメラ持てていいなあーーー!!!! 
アップでも耐えうる顔でいいなあーーーー!!
必死に前髪を整えている間に、みんなを映すための画角を探す余裕と思いやりがあっていいなあーーー!!
小顔だから画面を占領しなくていいなあーーー!!
ブスでも愛嬌のある顔でいいなあーーー!!
私は悲壮感のあるブスで辛いなあーーー!!

◎          ◎

「人は顔じゃないよ」
私もそう思う。でも、みんなが、一番みてるSNSであるInstagramは顔ばかり載っている。
ご飯に行ったのに顔しか載ってないよ?
サッカー観戦に行ったのに顔しか載ってないよ?
やっぱり顔なのでは?
顔じゃないって言ってた友達のインスタも顔ばっかだよ。

親戚の集まりで、従兄弟が結婚するという報告をした。
それを聞いて私は、相手の顔が気になった。
「人は顔じゃない」と思っていたはずなのに。
相手の顔写真を見せてくれた。
ミッキーマウスに似ていた。それしか分からなかった。顔だけじゃ、イケメンか、そうでないかということくらいしか分からない。
イケメンだという露骨な嘘ついても白々しいような気がして、「優しそうだね」と伝えた。
誰かが、「人は顔じゃないよね」と言ったので、同調した。
そこで、私はまず顔で品定めされ、そこから漏れた人間が他の項目で評価されるようなシステムになっていることに気付いた。

私は、顔で品定めされるのが怖かった。
女性用の帽子がきつい大きな頭、瞼まで毛が生えた太い眉毛、横に大きい鼻の穴、しゃくれた顎。
初対面の人に、「私はこういう顔ですよ、覚えてください」と、堂々と振る舞えたことがなかった。横に膨らんだ大きな鼻を目印に覚えられるんだろうな、と思うと、明日には私のことなど忘れてほしかった。

◎          ◎

昔、テレビにはエビちゃんだとか、ガッキーだとか、「可愛い」の正解がいて、鏡の前には「可愛い」の不正解がいた。
今はInstagramの、虫眼鏡の項目に「可愛い」の正解がいる。
でも、それをお手本に真似しても、満たされることはない。
日々コンプレックスを感じながら形成された人格から逃れられないからである。
たとえ可愛くなるために、整形だとか、ブランドの服装だとかで飾り立てて、後天的に努力して理想の外見を作り上げたとしても、卑屈な自分から逃れられる日は来ない。

私は、整った顔が羨ましいのではなくて、容姿のせいで卑屈にならずに育った人達が羨ましいことに気が付いた。
愛嬌のあるブスでもいい。もはや、欲しかったのは容姿より、愛嬌かも知れない。
今更どうやって、チャーミングなブスになれるのだろう。
わからなかった。

◎          ◎

正解を見るのが辛くなって、テレビもインスタも捨てた。
正解を知らなければ間違っててもいい気がした。
「なんでインスタやってないの?」と問われたら、「自分自身を他人に認識してほしくないからです」と答える。
人を顔で判断したくない。
人に顔で判断されたくない。
私の中身には価値があるのだろうか?
私が思う、私の価値ってなんだろうか?
それは人にも価値があると思われないといけないのだろうか?

「人は顔じゃない」
けれど、まだ、スマホの黒い画面に映った自分を見れない。