妊娠、出産という言葉に敏感な年頃である。
有名人の世界では毎日のように誰かが妊娠、出産を発表していて、めでたいとは思いつつ正直無関心だ。いや、素直に無関心というよりも無関心になろうとしている、というのが正しいだろう。
それが興味のない有名人や知らない人だったら良いのだが、微力ながら応援していた人だと祝福と羨ましさが入り混じり、なんとも言えない複雑な気持ちになる。今すぐ子供が欲しいわけでもないのに。

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先日、とある有名な方が妊娠を発表した。私はその方の大ファンではなかったが、日々の取り組みやハツラツとした雰囲気からいつも元気をもらっていた。
だからその方の幸せは本当に祝福したいことだったけれど、何気なく開いた画面から真っ先に飛び込んでくる「妊娠しました」の堂々たる六文字に、小さくて棘のある疑問を抱いてしまった。 
仕事も恋も結婚も、人生の全てにおいて人間は多かれ少なかれ「努力」が求められる。努力していれば自然と「運」は味方になってくれる。これはきっと、世の中の本質だ。
ただ一方で、努力しても運がなかなか噛み合ってくれないこともあるだろう。生まれ持った体質、国籍や文化の違い、才能と呼ばれるものなど……「天命」とも言うべきこれらに逆らうのは、並大抵のことではない。
「子供は作るものではなく、授かりもの」と昔、父は言った。妊娠は、妊活という自力で何とかできることだけでなく、それよりももっと大きくて得体の知れない天命が決めることだと思う。
天命はきっと人間の数だけ存在するだろう。だから、自分の幸せを全身全霊で喜びながら、一方ではチャンスに恵まれない人々もいるのだと頭の片隅でも良いから忘れないでいること。それが、人間としての優しさだと思うのだ。

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とまぁ、私はこんなにもグチグチした性格なので、自分にない物を持っている人にはついつい嫉妬心を抱きがちだ。
これまで、妬み嫉みの流出に鉄杭を打って阻止してくれたのが「推し」だったから、オタ卒後はタガが外れ、嫉妬の鬼と化していた。そのターゲットとなった友人が遠方にいるお陰で、直接感情をぶつけるという大惨事には至らなかった。しばらくLINEしたくない、SNSも絶対に見ないと、勝手にシャットアウトしてしまったのだが(心の安定のために、インスタは見るもんじゃないなと今でも思っている)。
嫉妬心を我慢しなくなって数ヶ月経ち、今は穏やかな気持ちでLINEするまでに回復した。友人が私の近況を興味津々で聞いてくれるたび、この人はやっぱり親友なんだなぁと実感する。そして胸がチクリとして、「ごめんね」と思う。
相手は私が勝手に距離を置きたくなっていたとは知らないので、謝る場面は訪れない。それでも、謝らなくて良いとわかっていても、「ごめんね」がどうしても頭から離れないのだ。

このエッセイを書き始める時に思い出した過去がある。学生の時に付き合っていた人との、少し苦くて笑える思い出だ。
彼は2歳年上で、誰からも話しかけられる、良い人だった。灰色、紺といった地味な色の服ばかり着ていたから、動物に例えるとコアラ。可愛い系なのに周りから頼られ、学校の職員と対等に話す姿は、当時1年生だった私の目にかなり魅力的に映った。私から好きになり、私から声をかけ、私から告白した。

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手探りの恋だった。お互い20代前半、もっとベタベタしてもっとバカップルになれば良かったのかもしれない。でもしょうがない。私はわからなかったのだ。人を好きになって、肩と肩が触れ合うくらいに近づいて、手を繋いだ先に何が待っているのか。
「知る」と「わかる」にはマリアナ海溝くらいの隔たりがあると感じた経験は、後にも先にもこの時期が一番だろう。

「カッサカサだ」
夜の静かな闇に、彼の呟きが響いた。私はリップクリームと友達になれないまま、その夜まで彼を待ってしまったのだった。
そこに「生理」という切っても切れない腐れ縁の幼馴染が加勢して、二人の行く手を塞いだ。何年も経った今振り返っても、The END感がハンパない。やれたかも委員会も降参の案件である。
別れて数年、彼への申し訳なさが残った。きっと彼なりに考えて、悩んで迷って、私を大切にしてくれていたのだと思う。そんな彼だったのに、女磨きの磨き残しをそのまま放置していたことが、何年も悔やまれた。
決して1つには絞れない別れの理由に、私のズボラさが混じっていたこと。彼の気持ちを推し量れなかったこと。日々、私の気持ちを伝えられなかったこと。色んなことを思い出して、彼に「ごめんね」と言いたくなった。謝りたい時にはもう、連絡先はわからなくなっていた。

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ここから綺麗な完結に持っていきたいところだ。しかしながら、酸いも甘いも嚙み分けたアラサー女は一筋縄ではいかない。元彼への「ごめんね」には、実は続きがある。
本音はこうだ。
「ズボラでごめんね。でも、好きなら『しゃーないなぁ、俺がリップクリーム塗ってやるよ』って言えるくらい格好良い男になりやがれ!」
我ながら図々しいことと重々承知だ。反対意見も多数あることだろう。それをわかった上で言う。苦しいほどに後悔して、真面目に反省したら、あとは相手のせいにしてしまえ。苦しいままでは生きていけないのだから。

人の温もりが恋しくなるこの季節。「ありがとう。またね」が言える人の存在が、決して当たり前ではないのだと身に染みる。
元彼にはもう会いたいと思わないけれど、親友にはいつかまた会う日が来る。ありがとうもごめんねも、言いたいだけ言える関係をこれまでずっと続けてこれたことは、奇跡だ。本物の絆だ。
だから今すぐには謝れなくても、何十年も経ってシワシワの顔で笑いながら「あの時私、Nに嫉妬してたんだよ。なんかごめんね」と言えたら、小さく残ったしこりは消えてなくなるだろう。いやもしかすると、そんなに長い月日が流れなくても「嫉妬してたんかい(笑)」と言われそうな気もする。
そして、Nがこのエッセイを読む頃には、(説教臭い長々とした冒頭文に書いた)妊娠を発表した彼女の気持ちにも、少しは寄り添えているかもしれない。