私は軽率に誰かを当てにする。
性別関わらずそうであるが、当てにした人数は異性のほうが多い。何故なら、大抵その当ては外れるためである。外れては新しい当てを見つけるの繰り返しで、自然と多くなってくる。

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午前0時のバーで、一緒にお酒を飲んで連絡先を交換した流れで数日LINEが続いているだけの男、私のことをよく分かってくれている会社の先輩、また会おうねと言ってくれた、いい感じだった男……。
私は彼らに何を期待しているのか。
決して、特別なことを期待しているわけではない。ただ今より離れないでいてほしいだけである。これからも今と同じ距離で、関係性でいてくれればいい。今より少し近くなってくれたらそれはそれで嬉しいし。私のなかで「気になっている人」という位置にいてほしい。
たまに、やりとりをしたり、遊んだりできればそれでいい。

とりわけ落ち込んだ時や連休最終日の夜には、彼らの存在が少しだけ支えになる。
彼女ができてもいい。転勤で遠くに行ってしまってもいい。大勢で集まったときにそのなかの1人として会えればいいし、たまに帰ってきたときに遊べたらいい。
いつか、どこかで結ばれるかもしれないという可能性をちょっぴり残して存在していてほしいなんて、やっぱり特別なことを要求しているのかもしれない。

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先にも述べたが、その当ては外れる。いとも簡単に。
だって、考えてみればそりゃそうだ。
「午前0時のバーで、一緒にお酒を飲んで連絡先を交換した流れで数日LINEが続いているだけの男」は、普段、東京にいる男だ。地元に帰省したタイミングでワンナイトを狙って私に近づいたのだろうから、東京に戻ってからの私とのLINEなんて無意味だ。次回の帰省で私に連絡をよこすこともないだろう。
「私のことをよく分かってくれている会社の先輩」も、きっと私のことなんて本当はよく分かっていないのかもしれない。彼の適当に放った言葉達が偶然私に刺さっただけ。
「また会おうねと言ってくれた、いい感じだった男」に関しては、その言葉は大体、社交辞令だ。恋愛あるあるに紹介されていそうなくらい、典型的なパターン。
どの男性とも、そもそも強固な信頼関係を築いているわけではなく、むしろ希薄な関係にあると言っても過言ではないのだ。
だが、何故か希薄であればあるほど私は彼らを当てにしてしまう。遠くにあるものを追い求めたくなる性質なのか知らないけれど。
そして、彼らは結婚をしたり、連絡がとれなくなったりする。

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だから、私は文章を書く。
軽率に誰かを当てにしながら、書く。
持て余した感情の行き場を作って、気持ちや考えを整理したり、時には成仏させたりするために。
私と彼との希薄な関係の上に成る確かな日々のことを記すために。
それに、結局自分の文章を書く力とか、情熱とか、そういうものしか自分の掌に残らないのである。最後まで当てにすべきは自分自身なのだ。分かっているのに、私はまだ他人を当てにするし、当てが外れてちゃんと傷つく。
いや、分かっているからこそ、軽率に誰かを当てにできるのかもしれない。自分の力や情熱という、心強い当てがラスボスの如く控えているからこそ、私はこうも頼りないものに縋れるのだ。心置きなく。

私はまだ自分のためにしか文章が書けない。
社会問題に触れたり、誰かを励ましたり幸せを願ったり、そんな文章をなかなか書けない。
だけど、私の文章だって誰かにとって何かのきっかけになったり、当てになったりすることもあるような気がする。
私も誰かの文章で、気持ちが切り替わったり、行動を起こせたり、そんなことがよくあるもん。
私の一方的な文章が、誰かに届きますように。
遠くの、もう生存さえ確認できない彼らにも届きますように。文章を書き終えた後、私はいつもそんなことを思っている。