「ふるさと」に思うこと、それは帰りたい場所がある人って良いなぁ、ということである。

私には、「ふるさと」と言える場所がない。それは、生まれ育った街から実家がすでに引っ越してしまったからかもしれないし、仲が良い地元の友人たちもみな地元を離れているからかもしれない。そして、私にとっては今住んでいる街が帰りたい場所になっているからかもしれない。

◎          ◎

そう書いてしまうと、ものすごくネガティブに聞こえるかもしれないけれど、今住んでいる街は夫婦ともどもすごく気に入っているし、夫と住む家はこの世で一番安心できる場所だ。夫と結婚して、この街がますます好きになったし、ずっと住むことができたら良いなぁと思っている。街はのどかで、どのお家もたくさんの緑に囲まれていて、優しい近所のおばあちゃんや猫たちがいる。仲の良い友人たちもみな近所に住んでいるので、心強い。

ただ、未だに年末年始やお盆など、世の中の人たちがいわゆる「帰省」をするシーズンになると心のどこかがきゅっとなる。いつもよりゆっくりとした時間が流れる街、電車の中には大きな荷物を抱えた家族たち、みんないつもより穏やかな表情に見える。

職場で、家族と仲の良い同僚の家族の写真を見たり、家族でバーベキューをした話などを聞くと、素敵だな、羨ましいな、と素直に思う。人には、選ぶことができるものもあれば、選ぶことができないものもある。ふるさとは、その一つだと思う。

生まれ育った街では、何かいじめをされたわけではなく、今でも定期的に会うような仲の良い友人たちがいた。それなりに学校も楽しかった。だけど、卒業以来、ほとんどふるさとには戻ったことはなく、私にとっては「帰りたい」と思う場所ではなかった。それには多分色んな理由がある。

◎          ◎

小学校に入ったくらいから、なぜだか写真が嫌いになった。きっと自分の外見へのコンプレックスや当時の特殊な家庭環境みたいなものが原因だったのだと思う。
いつからか写真の中の私は全然笑わなくなっていたし、ずっと何かに対して不満や怒りがあった。そんな街から飛び出したくもなったけれど、自転車で行ける距離なんて限られていたし、遠くまで行くお金もなかった。飛び出す勇気もなかった。

その頃の楽しみは読書だった。本を読んでいると、空想の世界に浸ることができた。図書館でたくさん借りては毎日様々な本を読んだ。読書好きな私に、担任の先生や塾の先生が様々な小説を貸してくれた。
私はその頃から本を読むのが早かった。多分、先生が褒めてくれるのが嬉しくて、どんどん読んでいたのだと思う。おかげで、国語は得意な科目だった。
特に好きだったのは、ハリーポッターシリーズである。何度も何度も繰り返し読んでは、次巻の発売を心待ちにしていた。

今思えば、もっと自分の感情を表現すれば良かったのに、と思う。辛いときは、辛い、嫌なことは嫌だ、と泣き叫べば良かった。多分、現実から本に逃げていたのだと思う。でも、きっとあの時はああするしかなかったのだ。

◎          ◎

先日、同級生たちと久々にご飯を食べていた。友人たちは、私にとって「懐かしいあの頃」を思い出させてくれる存在だ。進学をきっかけに私はふるさとを離れてしまい、しばらく会うことができなかったけれど、また社会人になってから定期的に会うようになった。
幼いときによく話していたからか、自然と趣味が合うのだ。「これ、好きそうだなぁ」と思い、気軽に誘うことができる友人がいることは、とても幸せだ。

当時のクラスメイトや担任の先生のことなど懐かしい話に花を咲かせているうちに、気が付いたら夜もふだいぶ更けていた。

「ああ、ようやく、あの頃のことを笑って話すことができるようになってきたな」と思った。

彼女たちも、たくさん悩み、たくさん泣いてきたことを知っている。そして、私もたくさん辛い思いをしてきた。それでも、私は生まれ育った街で、この友人たちと出会えたこと、今こうして一緒に笑いあえること、それはとても幸せなことだと思った。たとえ、生まれ育った街がもう私にとってのふるさとでなくても、あの街にはたしかに私にとっての大切な人たちがいたのだ。今になってだけれど、幸せを感じることができるようになったのだ。そう気が付くことができて、とても嬉しかった。

◎          ◎

夫と二人でお昼寝をしていると、「ああ、私はとても幸せだなぁ」と思う。心の底から安心することができる場所があって、幸せだ。
きっと私は「ありのまま」をずっと誰かに肯定して欲しかったのだと思う。幼い頃から勉強や習い事など、様々なことを頑張ってきた。社会人になってからは、がむしゃらに仕事をした。誰かにずっと褒めてほしかったのだ。そうして、頑張って、頑張って、頑張りすぎて疲れてしまったのだ。

夫は、そんなたまに頑張りすぎてしまう私に「頑張らなくてもいいんだよ~」と声をかけてくれる。「この人の前では頑張らなくても良いんだ」と私はホッとする。

ふるさとという場所がなくても、きっとこうして「ありのまま」を肯定してくれる人がいればそこがふるさとなのだ。大切な家族がいて、大好きな街があって、そして大切な友人たちがいる。それだけで、私は十分幸せだ。この街が、この家が、夫が私にとっての「ふるさと」なのだ。