私にとって文章を書くということは、好きなことをしているということ。
幼稚園の頃、パソコンをカタカタする大人に憧れて、電源の付いていないパソコンをとにかくカタカタと叩いていた。タイピングができるようになりたくて、とにかく意味もなくキーボードのボタンを押していた。
小学生になり、ローマ字を習った。教科書に書いてあるローマ字一覧表を見ながら、自分の名前を打つ。スラスラと打てるように何回も練習した。思うように文章が打てるようになっていくことが嬉しくて、長い文章を打つことにも挑戦。自分の当時の考えをメモに残したり、好きな曲の歌詞を書いてみたりした。
◎ ◎
この甲斐あってか、一年もすれば手元を見ながら文章を打てるようになった。自分の言葉が、好きなタイピングで書けることは嬉しくて、もっとタイピングがしたいと思うようになった。
次のステップは、ブラインドタッチだ。キーボードを見て打つ方法には、スピードに限度がある。目で見ているから間違いなく打てている文章だが、もっと早く打てるようになりたいと思うようになる。OLのように、パソコンをカタカタと打つためには、ブラインドタッチは必須だと思い、練習を始めた。
こちらもはじめは、自分の名前を速く間違いなく打てるようになることが第1段階だ。変換してエンターキーを押すまでを、キーボードを見ずに何回も繰り返した。
第2段階は、短文に挑戦した。できるだけ目をキーボードから離して打つこと。最初の1文字だけ確認して、残りは感覚を頼りにタイピングをした。始めてすぐは、意味の分からない文字が羅列していた私だったが、徐々に文章として正しく変換される打ち込みができた。今、この文章を書いているようなスピードで正しく打ち込めたときは、ガッツポーズをするほど嬉しかったのを鮮明に覚えている。
第3段階は、とにかく手元を見ずに、感覚を頼りに文章を打つこと。とにかくキーボードの感覚を手に覚えさせ、アルファベットの配置を思い出しながらタイピングをした。
◎ ◎
こうして書いてみると、小さい頃からかなり努力したように見える。がしかし、すべての発端は、パソコンを打っている大人がかっこいいから、である。かなりミーハーな理由だ。
とはいえあなどってはいけない。今は文字を打つことで収入を得ている。ライターとして文字を書くことを仕事にしているのだ。好きを仕事に、が小さくも叶ったということだろうか。
思い返してみると、今の自分につながっているのは、子どもの頃の興味が大半を占めている。ああなりたい、こうしてみたい、が今の私を作っているのだ。
こうしてエッセイを書き始めたのも、タイピングがしたかったからである。パソコンで文字を打つことにどこかで触れていたいと思ったときに見つけた場所。それが今では、うんと広い世界に出ることができ、収入を得るまでにつながった。
私が文章を書いていることに理由をつけるならば、好きなことをしたかったから、である。好きなことを得意にしたい。長く続けられるスキルでありたい。そう思ったから、タイピングを極め、ブラインドタッチが安定できるまでに成長した。
文章を書くことを仕事にすると、手がつかれることや腱鞘炎になることもある。しかし、楽しい、もっと書きたい、という欲が湧いてくるのだ。
◎ ◎
私はこれからも文章を書き続ける。今まで以上に収入を得て、さらに書くことが楽しいと思えるようになることが私の目標だ。ただ書くだけでは成長しないスキル。今まではタイピングを極めていたが、文章を魅力的に見せる言葉や使い方を学んで、書くことに生かしていきたい。
ここまで書いて、気づいたことがある。文章を書くことと、私にとって好きなことをしているという意味には、相互性があるのだ。
文章を書くことが好きだから、今も書くことに触れて、仕事にまでしている。一方で、好きなことを続けるために、これからも文章を書いていく。
明確な理由を持って続けられていることは数少ない。特に私にとってはめずらしい。今の本業を仕事にしようと思った理由は、これっぽっちもないからだ。今も、なりたいと思ったことは少しもない。だが、文章を書くことは、やりたい、続けたい、とはっきり言える。
私にとって文章を書くことは、好きなことをしているということ。
そして、文章を書くことで気づけた、“私との相互性”を大切に持ち、書くことを続けていきたい。