「別れないで」
N君からそれを聞くのはニ度目だった。

一度目は、彼が私に告白した時。
「ずっと好きだった。ダメかもしれないとは分かってるけど、付き合ってもらえたら……うん。とりあえず言いたかった。好きだって」
言うべき言葉はすぐ浮かんだのに、言葉は中々出てきてくれなかった。
「ありがとう。でもごめん。たとえ私に恋人がいなかったとしても、私はN君とは付き合えない」
やっと絞り出す。最初の一言が出てしまえば、後はゆっくりとだが確実に言葉が流れ出てきた。

◎          ◎

彼氏のことはいい人だと思うし、彼だって私にベタ惚れ。周りから見たら何ら問題ない円満なカップルに見えるだろう。彼にとってもきっとそうだ。ただ私だけが現状に、不満ではないけれど違和感を感じている。

愛してると言われて、私も愛してると返せない。ずっと一緒にいたいと思えない。ドキドキしない。それはただの倦怠期か冷めなのか分からない。いや、どちらでもない可能性の方が高いくらいだ。

私にとっては一番自責の念に駆られて辛い考えだが、私は多分、最初から彼に恋をしていなかった。そのくせ、彼になら言えることがあった。彼と一緒にいると安心した。そうして名前の付け方を知らない関係に、恋をこじつけてしまった。

◎          ◎

ネットで何度も調べたが、当然これといった答えはない。表が出たら別れると決め、投げたコインの結果にどう心を動かされるかで自分の本心がわかるという心理テストをしてみた。
表が出たコインに私は、自由になれると安堵し、同時に彼の温かな笑顔と腕を思い出し悲しんだ。この場合どっちなんだ。

最終的に、迷うならその時点で潮時だという言葉に従おうと何とか決めたものの、彼が浪人中で余計な心労をかけたくないという理由に逃げたまま、結局現状は変わらない。
「だから、彼の受験が終わったら、私は彼を振るかも」
わざと最後明るく吐き出して、N君の反応を待った。
「そんな、別れないでよ」
私はそれを「自分と恋人同士になれないのは残念だけど、応援してるから別れないで、幸せに」という意味に解釈した。付き合ってさえいればいいなんて、N君らしくない。気分を害した私は、
「ありがとう。末永く続くのがいいとは限らないけどね」
と突っぱねた。

◎          ◎

N君に私のこの気持ちと計画を話したのは、彼が私を好きだと言ったからだ。私は今の彼氏に違和感と葛藤を抱いていることを言わなければならなかったのだ。

今の彼氏も、N君も、同じ意味で好きなのだ。もっと言えば、同じ土俵ではN君の方が好ましく感じている。彼氏になら言えることでN君に言えないことはないけれど、N君になら言えることで彼氏に言えないことなんていくらでもある。そこには私が勝手に彼女という立場に縛られて猫をかぶるせいもあるだろうけれど。

でも、たとえ今の私に恋人がいなかったとしても、ここで首を縦にふってしまったら、N君をも犠牲にしてしまうのだ。今の彼と付き合っているのは、彼がたまたま先に私に告白し、好きの重みを、意味を今よりももっと分かっていなかった私がそれを受け入れてしまったからだ。違和感に気づいてなお付き合い続けているのは、せめて彼が味わう辛さを少なくしたいという思いと、恋ではないけれど人として彼を好きで、N君とは違う意味で彼を尊敬する気持ちがあるからだ。

◎          ◎

「あのさ」
あれから約1ヶ月後の電話で、二人の声が重なった。

私はその日、彼氏の振り方を話そうとしていた。私に告白してきた人に話すことではないだろうけど、私の機嫌を損ねた腹いせもあった。
以前彼氏の受験が終わったら延期していた誕生日やクリスマス分のプレゼント交換をしようと約束している。そこで私は花を1輪とお願いする。花なら彼の負担も小さいだろう。
青い花ならもう少し続けてみる。それ以外なら、もうお別れする。私には私が分からないから、運に責任転嫁することにした。自分勝手だと分かっているけれど、それ以外なかった。

それに青には私の意志がある。一番好きな花の名前を彼に言ったことがある。その花には青いものもあったはずだ。別にそれ以外の青い花でもいいけれど、こんな私とて適当に決めたわけではないのだ(このあたりについては機会があれば別のエッセイで書こう)。

お先にどうぞとN君にお譲りする。
「前、彼氏と別れるかもって言ってたけど、俺は別れないで欲しい」
胸がきゅっと締め付けられた。私が考えていたことと真逆のことをよりによって今言うのか。
でも、続く言葉で、二度目に聞いたそれは私が思っていたような意味ではなかったと知った。

◎          ◎

途切れ途切れにN君は話してくれた。私が彼氏と別れてしまったら、私はフリーになる。誰かと付き合える状態になる。そうなればまた好きだと告白したくなるから、別れてほしくないというのだ。

私のためではなく、自分のために別れないでと彼は言ったのだ。それに気がつかない私の言葉がどれだけ彼を苦しめただろうか。
なんでも話せる都合のいい関係に甘んじて、私に恋心を抱いていると知っている彼に私は、彼氏と別れる計画を話そうとしていたのだ。

受験が終わったら、私はきっと彼氏と別れるだろう。そんな気がするのだ。私は計画を立てたことで自分の気持ちが分かってしまったのかもしれない。

でも、N君の前では青い花を選んだ未来を演じよう。どんなにN君の言葉が嬉しくても、どんなに私を好きでいてくれても。私はN君と付き合うべきではないから、今の彼氏の二の舞にしたくないから、大切な人だから。私は末永く彼氏持ちでいよう。
それが、誰よりも心を開き、素でいられるN君の前でだけかぶる、唯一の仮面だ。