文章を書くことは、その人個人や社会的地位に捉われず、平等に発言することが出来る手段である。

いじめや性暴力といった被害を訴える手段にもなれば、誰かに想いを伝える手段にもなる。一度文字に起こせば、たとえその意見が通らなくとも声として、一つの意見として表出することが出来る。つまり、弱い立場の人が平等に声を上げる唯一の方法である。
これは、生きる希望を失い窮地に立たされた者に、唯一残されている手段と言っても過言ではない。私自身最弱の立場に置かれ、その心情を書き記した奇跡によって、気づいたら文章を書く力が格段に向上していた。

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私の人生は、まさに悲しみの連続であった。
小、中学校の9年間、地元に馴染めずいじめに遭い、15歳当時は人生の半分以上の年月を周囲に踏みにじられながら育ってきた。
高校入学後は進路のことで両親と不仲になり、最終的には自分の希望した進路に進めたものの、高校在学中は随分と批判の声を浴びさせられた。
そして高校3年生だった17歳の時、私は体育の時間に突然意識を失い倒れ、そのまま救急車で病院に運ばれた。その当時は原因がわからなかったが、半年ほどの年月を経て同様の事態が私の身に起こった。てんかんであることが分かった。

薬物治療を開始して5年が経った頃、一旦治療が終了し、ようやく喜びを感じることが出来たのもつかの間、服薬を中止して半年ほどで再び発作を起こした。24歳の誕生日の次の日だった。
一度再発すると完治は見込めないという事実は受け入れがたく、なぜ完治する人がいる中、私が再発するのかという事実に苛まれた。薬の種類を変えるも身体に合わず、全身が痒みで真っ赤になり、倦怠感で食事を取ることが出来なくなった。
2週間ほどでその症状が治まり通常の生活に戻ったが、約11か月後に再び倒れた。その年は就活に修論とやるべきことが満載だったが、発作の他にも発熱が何度も続き、3ヶ月ほど寝たきりの状態になった。その代償は大きく、両方とも失敗に終わった。
そして2019年に修了し、20年に公務員試験に合格し無事社会人となったが、その時既に28歳になっていた。

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就職するにあたって障害者手帳を取得したが、障害が重複することから2級に該当し、年金が受給できることも決まった。これまで自身の状況をひた隠しにして健常者の中で闘ってきたが、これほどの困難を抱えていたのかと思うと居たたまれない気持ちになった。

そして昨年、もう一つ大きな困難を抱えていたことが発覚した。
私は恋愛ができない。自分に自信が持てず、片想いの主に思いを伝えることが出来ない。
一方、好きでもない人に告白されても断ることが出来ない。私の恋愛遍歴は不本意なものばかりで埋め尽くされていた。

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ふと、私にはいつ平凡な幸せが訪れるのだろうと思うことがある。度重なる困難によって精神が苛まれ、中々心に余裕を持つことが出来ない。
しかし振り返ると、挫折を繰り返すごとに私の中には一つの共通した副産物が生まれていた。
就職活動に失敗する度にESシートの書き方が上達し、悲しい出来事が襲い掛かる度に私は産まれた心情一つ一つを文章に書き起こした。その都度文章を書く力が上達した。
10社以上に不採用になった時期に書いたESシートは、4年半もの時を経た現在読んでも完璧だ。もうこれ以上のものは書けないだろう。
その他にも小、中学生時代にいじめられた経験をもとに執筆した45000字の手記は多くの人の反響を呼んでおり、被害者遺族の一人は感想を述べる際に涙を流しながら話していた。
私は文章を書いて、人の心を動かすことが出来た。現在は社会貢献活動のために手記の出版を目指している。

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これらの経験から文章を書くことについて、一つ思うことがある。
文章とは、悲しみから生まれるものである。

人は窮地に立たされた時、言葉には表現できないほどの悲しみや苦しみに苛まれた時、文章を書くという行為に走るのではないだろうか。
私も先日、職を辞した後輩に向けて手紙を書いた。仲間でいなくなったことの悲しさ、体調を崩してまでも働き続けたという過去と、行政に未練があるという彼の抱いていた心情、執筆中にその全てがのしかかり、書きながら涙が止まらなくなった。
便せん8枚に上る長文となったが、語彙に限界を感じた際はスマートホンでヒントをもらい、何度も下書きをして時間をかけて執筆した。下書きを読み返すと、随分と文章を書く力がついたと思った。

こうした副産物のおかげで、最近は悲しみも受け入れられるようになってきている。
そして、この事実に気づいたからこそ、私は社会貢献のためにも執筆活動を続けていきたいと思っている。