「文章を書くということ」それは私にとって非常に苦痛を伴うことである。
私は文章を書くことが嫌いだ。文章を書くくらいならトイレ掃除をしている方が幾分マシであるとさえ思うほどだ。
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生きていると、文章を書く機会がたくさんある。学校に限定すると読書感想文や小論文、他にも行事がある度に教師たちはなにかと文を書かせたがる。
小学校高学年の私は、文章を書くことへの抵抗が強すぎるがゆえに、読書感想文を一度も提出しなかった。
今考えると読書感想文なんて担任の先生しか読まないし、一時間もあれば書き終わるのだから、適当にでも書いて出すべきだったと思うのだが、当時の私は担任の先生にすら自分の書いた文書を読まれるのが嫌だったのである。
しかし私は文章を書くことは嫌いでも、読むことは嫌いではなく、むしろ小学生の頃は毎日のように図書室に行き、図書室の本を読みあさっていた。
一度でも文を書いたことに対する賞などをもらっていれば、ここまで文章を書くことに対して抵抗がなかったのかもしれないが、文才がないから文章を書きたくないのであって、そんな私が文を書いて賞賛されるわけがないのだ。
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こんな私でも抵抗なく文章を書けることもある。それは手紙だ。
まだインターネットが今ほど当たり前ではなかった、小学生の頃、私は引っ越す前に通っていた学校の友人と手紙でやり取りをしていた。
文章を書くことそのものが嫌いなら、手紙を書くことも嫌いでありそうにも思えるが、手紙を書くことはむしろ好きで、それは今も変わっていない。
手紙が届くわくわく感も手紙が好きな理由の一つにあるが、手紙を通して相手の今の様子を知ることができたり、現在の自分の姿を文字で伝えられたりすることがとても楽しい。
また、手紙を書いていると、自分で気づいていなかった自分自身の本当の気持ちが分かるような気がする。
手紙には自分が今やっていること、それをやっていて感じることなどを書くと思うが、手紙を書く中で自分の気持ちが整理され、楽しいと思ったことに対してなぜ楽しいと思えたのか、ということが分かるように思う。
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これは手紙だけに限ったことではなく、何かあった時になぜそう思うのかを文字化することで、自分の本当の気持ちに気づくことができ、改善に向かうことができる。最近はLINEなどのSNSが広く普及しているため、手紙を送ることはなくなってしまったが、LINEやTwitter、Instagramなどで文字を書くことがある。
私はTwitterで自分しか見ることができないアカウントを作成して、今日あったことをつらつらと日記代わりに書いているのだが、今日あったことをまとめていると、自分の本当はどうしたいか、というような本心が見えて来る。そこから今後どう行動していくのかが明確になり、事がスムーズに進むようになったという経験が何度かある。
このように文章を書くことのメリットはたくさんある。
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それが分かっていながら、なぜ私は今でも文章を書くことが嫌いなのだろう。
このエッセイを書く中で分かったことがある。それは文章を書くということ自体が嫌いなのではなく、人に自分が書いた文章についてあれこれと言われたり、評価されたりすることが苦手だということだ。
文章には上手い下手があるし、順位をつけなければならない場合はしょうがないが、本来誰かが書いた文章に甲乙つけるのがおかしな話だと思う。
私は自己肯定感が低いため、絶対ぼろくそに言われて低い評価を付けられると思ってしまうのだが、自分の書いた文章を誰かに貶されたとしても自分がいいと思えばそれはいい文章で、今度もこのマインドで文章を書いていればいつか文章を書くということが大好きになるのではないかなと思う。