文章を書くということ。私にとってそれは、「自分のバランス維持の方法」なのだと思う。
就職活動時に、私の強みを他己分析してもらったところ、「共感力」というものが強く出た。確かに、私は小さい頃から「優しい」「穏やか」「周りに馴染みやすい」と評価されることが多かった。
では、私自身が思う「本当の私」はどんな人だろう。「頑固」「無気力」「マイペース」
この文字が、私の中に時折垣間見える。
だがしかし、周りから評価される私も私であり、私自身が認知している私も私である。そのバランスを上手く取ってくれるのが、「日記の中の私」だった。
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「〇月×日、今日はおばあちゃんがおやつに、とっても大きいおにぎりを作ってくれました。具材はツナマヨ。昔大好きだったもの。それを覚えてくれてたんだね。ほんとは、今はダイエット中だから鮭が良かったけど、おばあちゃんの笑顔見たら言えなかった。おばあちゃんありがとう!(中学時の日記より)」
今読み返すと「作ってくれるだけありがたいでしょ!その場で言わないと失礼!文句言うな!」と思うけども、その当時の私からしたら難しい局面だったのだろう。
おばあちゃんの優しさを感じながら、自分の意思も大切にするという器用なことは、日記の中でしか出来なかったことなのだ。
「×月〇日、今日は○○(妹)と喧嘩してお母さんに私だけ怒られた。全部○○が悪いのに。○○は平気でお母さんに嘘をつく。何で私だけ「お姉ちゃんだから」という理由で怒られなきゃいけないの。言い返したいけど、言い返したら火に油、分かってる。(中学時の日記より)」
これもまた、今読み返すと「言い返さない時点で負けじゃん」と思うけど、家庭内平和やこれ以上怒られないようにするための、私なりの防御策だったのだと思う。
こんな風に、今日あったことを、私視点で書き留める。ただただ、つらつらと。
日が経って読み返してみると、その時の私にはなかった視点が見えてくる。面白い。
誰に読んでもらうというわけでもない、評価して欲しいわけでもない。ただただ、自分のために書くのだ。そんな風にして、「文章を書くということ」と昔から付き合ってきた。
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その私が昔から今も併せて大好きなこと、それは「読書」だ。「読書」は、私自身がまだ見た事がない、知らない世界へと誘ってくれる。私にはなかった「ものの見方」を教えてくれる。
日記と同様、視覚や想像力からのインプット、だ。
日記同様、読書という方法でインプットしたことを、自分のためにアウトプットする。それもまた、「文章を書くということ」と繋がってくる。
アウトプットすることで、自分のモノになる。
自分の財産になる。これは昔の小学校の時の担任の先生からの受け売りだが、本当にそうだ。
感想をまとめる。そこから誰かに伝えてもいい。書き留めてもいい。書き留める方法は紙からSNSに変わりつつあるが、そこにある根本的な目的は何も変わらない。
「自分のバランスを維持すること」
その部分だけは、いつ何時も揺らがないのである。
冒頭で書いたように、他人から評価される自分も自分であり、私自身が認知している私もまた、自分なのである。
「文章を書く」ということは、そのバランスを維持しつつ、自分自身を肯定してくれる、大切なライフワークなのかもしれない。