国語のテストで文章を書いたり、誰かに手紙を書いたり、あるいは夏休みの読書感想文を書いたり。文章を書くこと自体を苦手とする人は多いと思うが、わたしもその中の1人である。今もなお、授業の感想を100文字書くという課題ですら苦戦している。

しかし、「手紙を書くこと」は昔からとても好きだった。友達だったり、家族だったり、好きな人だったり。幼少期から色々な人に手紙を書き、送りつけていた記憶がある。
その中でも特に、幼馴染とは、長い期間手紙を交換し合った。

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同じマンションの隣の隣の部屋に住む彼女とは、幼稚園生の頃に出会い、ほぼ毎日遊ぶ仲であった。そして、会えない日には必ず、手紙を送り合っていた。
彼女とは学年が一つ違うため、今こそ疎遠になってしまったが、当時送りあった手紙を見返すと、今でも思い出が鮮明に蘇る。

「バーベキューたのしかったね」
「あした公園でゲームしようね」
「ディズニーたのしかったね」
些細なことを逐一手紙で報告していたことも、思い出深い。そして、小学生らしい拙い文章、少し汚い字からも、懐かしさを感じる。

わたしにはもう一つ、思い出深い手紙がある。それは、「反省の手紙」である。
イタズラをしたり、何か悪いことをしたりしたときは、罰として反省文を書き、母親に提出させられていた。
10年以上も前に書いたものであるが、今でも反省の手紙は全てとってあり、「もうなまえきなことはしません。」と書かれた手紙は、我が家の家宝となりつつある。

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4歳下の弟がサンタへ書いた手紙も、全て残っている。
「さんたさんへ げーむのかせっとがほしいです。ことしはおにぎりをよういしました。たべてください。」
とても微笑ましいもので、サンタを純粋に信じていたあの頃の弟の姿が蘇った。手紙が残っているからこそ思い出として楽しめた。

今となっては、インターネットが発達し、手紙の必要性がなくなってしまった。文字を打てば、遠くにいる人へも、ものの数秒で文章を送ることができ、非常に便利な世の中である。
しかし、わたしはそれに対して、「文章のやり取りが味気ないものになってしまった」と感じている。

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インターネット上のやり取りに比べて、手紙のやり取りは、より「心がこもったもの」となる。スマホやパソコンなどで打った文字と違って、手書きの文字は、一文字一文字に気持ちを込めることができる。いわば個性ともなり得る。

また、手書きの文章は、話し言葉と違って、捨てない限り永遠に残る。何十年経っても見返すことができ、その人の心の中にも永遠に残り続ける。

わたしは今年成人の日を迎えたのだが、家族、祖父母、そして恋人からお祝いの手紙を受け取った。それぞれの手紙には、その人の手で書かれた、その人の文章、その人のことば、その人の字があり、その人の思いがそのまま自分へ届き、とても心に残った。手紙にしかない良さ、文章を手で書くということの良さを今一度実感した。

誰かに感謝を伝えたかったり、より心のこもった文章を送りたかったりするときは、手紙を書こうと思う。手で文章を書くことを、これからも大切にしていきたい。