「見かけのわりに度胸があるっていうか、肝が据わってるよね」
これはつい最近、私が人から言われた言葉である。
私の外見には特筆すべきところはないと自分では思っているが、平均よりも身長は少し高めでやせ型、取り立てて派手ではない顔立ちと雰囲気から、おとなしいという印象をもたれることが多い。
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中学時代からの付き合いである友人と久しぶりに会って、お互いの近況報告をしたときにも、「なんか、前より逞しくなったね」と驚かれた。
友人いわく学生時代の私は、責任感の強さゆえにすべて自分で背負い込もうとする危うさがあったらしい。まるで自分の両手で抱えられる以上のものを無理に抱えようとしていたと、言外に含ませていた。それでいて、何かを実行しようとするときには行動よりも思考を先んじ、周到すぎるほどの準備をする性格に見えていたらしい。石橋を叩いて渡るということわざそのものを体現したような人物だったという。
確かに私はこの数年で変わったという自覚がある。
コロナ禍で行動の制限された社会、社会人になって心に負ったたくさんの傷、どうしようもないくらいの絶望を知った。その中でいろんなものを失って得てを繰り返し、再び立ち直った。助けてくれる人なんていなかったと言えば自分で気づいていないだけだという声が聞こえてきそうだが、私には本当にいなかった。
ここ数年の私のすべてを知る人はいない。友人にも家族にも、その断片しか見せてこなかった。否、信用がなくて見せられなかったのだ。
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様々な経験の中で私はある意味、強かになったと思う。考えるよりもまずは行動する度胸もついたし、まあどうにかなるだろうとあっけらかんと構えるほどに肝も据わった。傍目に見れば、内面に想像以上の強さを持ち合わせた人だろう。
だが、根っこにある素顔の私は変わっていない。「強く見える私」は「強く見せている私」なのである。私は相変わらず他人に弱い自分を見せることはできない。以前にも増してその傾向は強まり、他人に期待することも縋ろうとすることもやめてしまった自分がいる。
強い人には、二種類あると私は考えている。
一つは本当に強い人だ。自分に自信があり、何をするにも必ず応援してくれる人がいて、いつでも愛してくれる存在があって、失敗を恐れる必要のなかった人、恐れるということを知らないで生きてきた人だ。自分というのはゆるぎない存在であり、しかもそれを支えてくれる周りの人もまたゆるぎなく、欠けることなどない。
もう一つは、強くあることを強いられてきた人だ。
何か行動をしようとすると必ず誰かの反対に遭い、失敗して挫折して泣き縋ろうとしたら突っぱねられた挙句、失敗することに恐れをなした人、失敗は許されないという強迫観念に駆られた人だ。
こういう人は自分で自分を信じてあげるしかないと悟り、また期待していいのも己のみだと心に決めている。自分だけを信じて生きている人というのは、外面的には芯の強い人に見えるのだと私は思う。しかしながらその実態は、外から見える部分はかなり強固であっても、実は芯の部分が一番弱く脆いのである。
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今の私は人一倍強く、逞しいと思う。そしてそれを誇りに思う。周りの支えがないからこそ、失敗したらどんな目で見られるだろうと怯えることもなくなった。他人が勝手に描く私の偶像に外れることを恐れる必要もなくなった。
だが、時を経て今度は「強い私」の虚像が一人歩きを始めようとしている。少し強くなり過ぎたのかもしれないと思いつつ、いつしか素顔の自分を見せられる存在が現れることを、少しだけ夢見て今日もまた生きている。