思い出すと、実家のキッチンも、祖母の家のキッチンも、食卓とキッチンの間にはカウンターがあった。キッチンにいながら、食卓の様子が見えるのだ。

今、一人暮らしのこのワンルームでは、ガスコンロから目線を上げても、目に入るのは無機質な壁ばかりだ。

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小学生の頃、私はよく、実家でも祖母の家でも、このキッチンのカウンターに身を乗り出して、母や祖母が料理をするのを眺めていた。身長が足りず、全体重をカウンターに預けてよじ登っていた。「危ないからやめなさい」。母にも祖母にも何回も怒られた。

でも、私は知っている。ここにこうやってよじ登って覗いていると、母も祖母もつまみ食いをくれるのだ。ひょいっと入れられ口の中に広がる食べ物の味は、同じ物をご飯として食べるときよりも数倍おいしい。

「つまみ食い」という、ちょっとずるいような、行儀の悪いような、いたずら心のようなものが、おいしさを倍増させていたのだろうか。祖母が私につまみ食いをさせるとき、ちらりと母の顔を見て、「あげてもいいか」と確認していたのも懐かしい。

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中学生になると、身長が伸びて、カウンターによじ登らなくてもキッチンを覗けるようになった。それと同時に、悩みが増えた。勉強のこと、部活のこと、人間関係のこと。私に難病が見つかったのも、中学生になったときだった。

中学生になり、部活を終えて家に帰ると、いつも母はキッチンで夕飯を作っている途中だった。だから、私が母に話を聞いてもらう場所は、だいたいがキッチンだった。母の手元をぼんやりと眺めながら、とりとめなく話をした。

涙もろい私は、このキッチンのカウンターでたくさんの涙を流した。うれし涙、悔し涙、悲し涙。このときも、母は私につまみ食いをくれた。いつも、ちょっとしょっぱい涙の味がした。

たくさんの思いや悩みが、料理をする音と食材の匂いに混じって、空気中に溶けていく。食材を刻む音、炒める音、煮込む音。それらを聞いていると、心の波が穏やかになっていくようだった。料理が完成する頃には、私もあらかた話し終えて、少し心が軽くなっているのだった。

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学生生活を終え、一人暮らしを始めるまでの少しの間、キッチンで料理をしながら帰りを待つのは、私のほうとなった。夕方、仕事を終えて帰ってきた母は、そのままキッチンのカウンターの椅子へと座り、今日の出来事をしゃべり出す。

キッチンに立つ側になると、意外にも、カウンターにいる人の顔がよく見える。料理をしながらでも、母はしっかり私を見ていてくれたのだと気づいた。母に、料理の途中で味見用の小皿を差し出す。これは、味見ではなくて、つまみ食い。

今、一人でキッチンに立ちながらそんなことを思い出す。ワンルームのこの部屋では、部屋の一角にコンロとシンクが備え付けられているだけで、キッチンと呼ぶには少しお粗末な気もするけれど。

いつか私も、「私の」キッチンで、キッチンの向こう側の誰かにつまみ食いを差し出す日が来るのだろうか。