きっとこれは公務員や専門職あるあるなのだろう。
私は教員を3年勤めたが、一度も「経験のある人」として扱われたことがない。担当科目も、クラス管理も、行事進行も、すべて新人の中の新人。

一般企業で働いていると、年齢問わず経験が1日でも長ければ、誰かに教える立場になることがあったため、この差は面白い。残念ながら、私は公務員として「経験のある人」になることなく現場を去ることになったため、いつから扱いが変わるの分からずにいる。

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そんな私も、この春より修士課程2年生になる。6年間の社会人を経験した後の入学だったため、学部からストレートに大学院へ進学する人と最大6歳の年齢差がある。同年代と言えるギリギリのラインで、入学前は話についていけるかヒヤヒヤしていたのを覚えている。

しかし、いざ蓋を開けてみると、私の専攻は年齢がバラバラ。社会人経験の有無だけではなく、国籍も多様なメンバーだった。こうなると誰が先輩なのかわからなくなる。
中には教授よりも年齢が上の学生もいるため、学部生だった時よりも教員陣の学生への対応が大人なのだ。ここでは研究者と研究者予備軍というくくりになるからかもしれない。お互いをリスペクトした上での授業展開となるのは新鮮だった。

そして「経験のある人」になることなく学校を去った私も、ここでは教育に関して「経験のある人」として扱われる。
私の大学院での専攻は教育学ではないが、様々な授業で聞かれる私の眼差し。「いまの問題、教育現場としてはどうなんですか」「子どもたちの態度は違うんですか」生の教育現場では回ってこなかった私にマイクが向けられる。教授を含むそこにいる全員が、私の経験を聞こうとする。この温度差が面白くてしょうがない。

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最も印象的だったのは、とある社会福祉学の授業だった。貧困理論についての議論だったが、その日は子ども主体の実践論へよく繋がっていた。
流れで学校内の子どもの様子を聞かれることが多かったためか、みんなが「なるほど」とメモをとる姿に不意に不安になってしまい、思わず語尾にこう付け加えた。
「でも、私は3年しか勤めていないので」すると担当教員が即に返した。「立派なものじゃないですか。プロですよ」

我々はいつプロになるのだろう。いつになったらこの道のプロフェッショナルと自称できるようになるのだろう。それは他人による評価が下りてからなのか。それとも期間を問わず自称し始めたその瞬間からなのだろうか。

バイトを始めて1ヶ月後にフライドポテトの揚げ方を後に入った子に教えている時と、経験したことのない部署のリーダーになってメンバーに自己紹介をしている時…。ここにどんな差があるのだろう。
新しい学校に赴任した勤続30年目の教員と、同じ学校に3年勤めている教員…どっちがその学校の子どもについて理解しているのだろう。

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「この人は私より先輩だ」「経験者なんだ」
この気持ちは数字だけが決めるのではないと、思いがけず大学院で学んでいる。
自分の知らないものを知っている人がいたら、その人がうんと年下でも、きっと先輩と呼ぶに相応しいと感じる。私にマイクを向ける教授たち、学友たちは、その価値観で私の声を聞こうとしてくれるのだ。

これは何もアカデミックな場だけに持ってくるべき価値観ではないだろう。会社にだって、学校にだって、どんな場所にも通じることができる考え方なはず。必要なのは、私たちの学ぶ姿勢なのだろう。