今更になって気付いたのだけれど、人間というものは精神的に逞しい人間とそうでない人間にわかれる。

程度の差はあれどこの2つだ。
その強さを可愛い笑顔で誤魔化す人もいれば、逆に弱さを強い言葉で隠す人もいる。
そうやって仮面を被り社交辞令でその場を繋げば気づかないのだけど、両者の間には絶対に理解し合えない壁がある。

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それをひしひしと感じるのが人類最強に逞しい女、私の姉と話している時だ。
姉は基本的に悩むということを知らない。思ったことは言う。要らない。分からない。興味がない。

そして姉がピシャっと言って傷つけた相手を慌てて慰めるのが私の昔からの役目であったりする。そうやって他人に対して強い分、自分に対しても強く、彼女は悩まないし立ち止まるということがない。本当に同じDNAで作られたのかと思うほどに私は自分にも人にも弱い。

そうやって姉が傷つけた相手に寄り添い、宥め、優しい言葉を掛ける。
みんなは"優しい"と称するが、そうではない、弱いだけだ。その一言で傷つく気持ちが分かるから、心に感じる何かが分かるから。その分、自分自身はもっとデリケートで、病んでしまったり、人の言動で一喜一憂したりなんか日常茶飯事だ。

おまけに姉のような逞しい人間に虐げられたり、言葉の一語一句に感情を揺さぶられて、こちらはたまったもんじゃないのに、当の本人にはケロッとしていて、どうして自分はこんな苦労する性格なのだろうか。そう悩んだこともあったけれど、最近はこういう性格だからこそ出来ることもあるのだと気づいた。

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それは3月のある日のこと。
日頃口数の少ない。というよりも返事すらしないような父が、自分の生い立ちを話した後に
「お父さんは生まれてきて良かったんかなあ」と、こぼした。きっとそこに至るまでに父なりに何かがあったのだろう。そもそも喋りかけてくるの事自体珍しいぐらいなのに、そんなヘビーな話題を振ってくるなんて。

理由は聞かず、ただ父親の話を最後まで聞き、安心させる為に、「私はお父さんと会えて幸せやからお父さんが生まれてくれて良かったよ」と、だけ伝えた。
「そうか」とだけ言い残し父は去ったが、普段とあまりにも違う様子に姉に事の経緯を話した。

すると、「え、何それ、意味分からん。生きてる意味とか探してるん?」と、返ってきた。
おそらく姉の感覚では「人生は生きて死ぬ、以上!」で、その時無性に父親が寂しかったのだろう。とか、私達には言わないけれど、誰かに会ったのかもしれない。とか、還暦超えたおじさんが弱音見せれる相手なんて限られてるもんなあなんてことは考えないのである。
だからこそ父は姉ではなく私に不安をぶつけたし、私はおそらく父の求める言葉を返せたのだと思う。

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この時なんとなく思ったのである。
弱すぎる自分が、弱音ばかり文章にする自分が、私みたいな弱い人間がいてもいいのだと。
そしていつも感情が爆発する度にこうやって打ち込む文章は、ふと弱くなった心の誰かの補強作業をしいるんじゃないかと。
だから私は今日も書くのだ。自分の思ったことや感じた事を。
自分と同じようにナイーブな心を持った子の心をほぐす為に。
自分と同じように人の温もりを求める子に共感という力を与える為に。