私が思う大人は、マンションの大きな窓からベランダへ出て夜景を見下ろしながらハーゲンダッツを食べている。時々、勿体ぶったようにワインを口に含みながら。リビングでは、ふかふかの黒いソファの上に置いた読みかけの雑誌のページが、窓から入る心地よい風にふわっと変わる。週末は遠出がしたい。

あるいは、夜のオフィスで翌日のプレゼン資料を作っている。購入したばかりのネイビーのスーツは上品な光沢を帯びている。
気分転換に窓辺でコーヒーを飲みながらオフィス街のキラキラを眺める。この光の一つ一つが働く大人によって生まれる光だ。

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幼い頃から変わらない私の「大人」像は、とにかく高いところから見下ろす夜景とともにある。
大きくなれば、そんな大人になれるのだと思っていたし、当時の私にとって現実的な夢でもあった。

だから数年前、私は興味があった。行かないと気が済まなかった。街の中心部に聳え立つあのタワーマンションに。

大きくなれば誰もがそんな「大人」になれるわけではないので、私は今日もあのマンションをバスから見上げるだけだし、机の上に書類とファイルを散らかしながら、夜のオフィスで作業をする。紙コップにウォーターサーバーの水を入れながら、ふと外の景色に目をやると、窓からは公園や並木道が見える。春になるとここでサラリーマンや学生が夜のピクニックをしている。桜並木なのだ。階数は高くはないが、いや高くないおかげで、春は夜桜を楽しめてしまう。

夢には程遠いが、今の私だって悪くないのだ。
そりゃそうだ。私だって、そこそこ努力はして、頭がいいんだねと一応言ってもらえる大学も出たし、会社だって悪くはない。決して高所得者にはなれないが。
でも、やっぱり「大人」という感じがしない。
あのマンションから夜景を見下ろす人は、どんな人なのだろう。景色を、気分を、生活を知らなくてはならない。

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そう思っていたある日、偶然飲み会で知り合った男友達と初めて2人でお昼ご飯を食べていたとき、ホームパーティーという名の宅飲みに誘われた。
「あそこに住んでるんだけど、パーティー会場の内見する?」
彼が指差す先にはあのタワーマンション。
「うん、ちょっとだけ」
今まで彼氏ではない男性の部屋に2人きりのときに上がったことなんて無かった。あの夢が頭をよぎる……なんてもんじゃない。頭の中をジャックして、私に迷いは無かった。彼への信頼もあった。彼への信頼とは「私達、ただの友達だから〜」という理由からくるものではなく、彼が全く女性に困っていないモテ男だということに対する信頼だ。
彼レベルになると、女性のほうから彼を求める。その余裕っぷりに、また一人、また一人と彼に堕ちていくさまを見てきた。

たとえどんな相手であっても、どんなに好きであっても付き合うまでは部屋に上がらなかった私を、私は初めて裏切った。

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大きな窓。同じ高さの建物が近くに無いため、カーテンは無い。爽やかで鮮やかな青い空が見える。黒い大きなソファに、毛足の長い黒のマット。天井についたプロジェクターは、白く大きな壁をスクリーンにして映像を映し出すらしい。
「パーティーまでに、ワインセラーかシーシャを置きたいんだけど、どっちがいい?」
午後2時でも充分素敵。
思えば、少しいいホテルに泊まれば、大きい窓も眺望も家具も見ることはできる。が、ここに来て良かった。無造作に置いてあるコードレス掃除機、テーブルの隅に積まれたトランプ、キッチンには今朝洗った食器があって、ちょっと汚れた調味料の瓶が並んでいる。
ここには生活がある。
「内見?できて良かった。もう帰るね〜」
「下まで送っていくよ!」

パーティーが行われる夜は、一体どんな眺めを見ることができるのだろう。あの夢が私を突き動かし、私を裏切ることになったのだが、それもそれで良かった。遅かれ早かれこの裏切りは起こったかもしれないし、それが夢のためであったのなら本望だ。
丁寧にマンションの外まで送ってくれた彼と別れて、そんなことを思いながら歩いていると、彼からLINEが来る。
「お気をつけて〜」
一見冷たそうだけど、こういうマメなところがモテるんだろうなあ……。