いつからだろう。自分の誕生日を迎えると、赤ちゃんの頃の私を抱っこしている時の両親の笑顔がフラッシュバックし、一瞬胸が苦しくなる。目をつぶって深呼吸する。「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせる。
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私の名前の漢字には、以下のような想いを込めたと、幼いころに母から聞いたことがある。
「カナダはまだ寒いけど、私たち(両親)のふるさとである日本では桜が咲いていて、あたたかい気候なんだよ。そのことを忘れず、そして、そんな春の気候のようなあたたか人になってほしい」
このことを思い出す度に、息が詰まりそうになる。
私は、何かに秀でているわけでもなく、これといった明確な目標を抱いているわけでもなく、ただ毎日を “それとなく” 生きているだけ。カナダ生まれという特徴を活かすことをしているわけでもない。もったいないと自分でもわかっている。何かに対し無我夢中で努力することもなく、本当に “なんとなく” 生きている。
趣味嗜好はあるけれども、特別極めようとは思っていない。
こんな娘でよかったのかな。名前負けというか、名前の漢字に込められた想いに何一つ当てはまっていない。
いつからこう考えるようになったのか。子どものころはこんなこと考えなかった。成長するにつれて、失敗することが増えていき、自分に自信がなくなってきた。もともと自分に自信満々といったわけではなかったが、私の存在価値は何なのか、親は私に満足しているのか、“大人” になってから、こんなことを思うようになっていた。
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30歳になった今年は、真珠のネックレスとピアスをもらった。本物の真珠だ。大人の女性という感じがして
嬉しい反面、自分にはふさわしくないとも思う。真珠1つ1つが放つ輝きが、眩しくて、重い。
ふと、成人した20歳の誕生日にもらったダイヤモンドのネックレスを思い出した。4月の誕生石がダイヤモンドだからということでもらったのだ。本棚から出し、手のひらに置いてみる。綺麗だ。でも、これも眩しい。
ダイヤモンドは自然界で最も硬い鉱物で、磨くと屈折率が高く、他の宝石より輝きが強いと言われている。
自分はどうか。ダイヤモンドのような人間か。この10年間、20代のころの自分について、考えてみる。
・硬い鉱物
…意志は固い方かも?自分で決めたことは基本的に守って実施している。頑固といえばそうなのかもしれないが…。
・屈折率が高い=他の宝石より輝きが強い
…美人ではないし、メイクも必要最低限しかしないし、特段おしゃれでもないので、常に周りの視線を独占という感じではもちろんない。しかし、なぜかジムでは、若者からじじいまで、男性陣からの視線を時々感じる。
・石言葉:「清純無垢」「不変」
…「清純無垢」はあてはまらない。私だって人間なので、ダークな感情やもやっとした気持ちになることは多々ある。「不変」カナダが好きなこと、15年以上ずっとショートヘア、一度決めたことは貫くこと、まぁこの辺りが当てはまるかと。こちらも、頑固といえば頑固なのかもしれないが…。
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無理やりダイヤモンドの特徴にあてはめたという感じは否めないが、周囲の影響を受けやすかった10代や20代前半のころと比較すると、いまの自分は、固い意思というか、自分らしさを大切にしようという気持ちが増していると思う。周囲が何と思おうと
「私は私。これが好きなんだもん/こうしたいんだもん」
という気持ちが明らかに強くなった。そう考えると、「硬い鉱物」で「不変」の思いがある、という点では、ダイヤモンドのような人間なのかもしれない。他の宝石より輝きが強いかどうかは、物事の分野によって異なるだろうから、常日頃輝いているかどうかは、あまり気にしないことにしよう。
視線を戻して、再び真珠を見る。一粒一粒なめらかな表面で、息をのむほど美しい。
いまの私は、まだでこぼこして不恰好な部分が多いけれど、これからの10年間で少しずつ、この真珠のように、なめらかで美しい輝きを放つ存在になれたら…と願う。自分にはふさわしくないからといって遠ざけず、あえてまめに身に着けてみようか。きっと両親は、私に何か大きな見返りを求めてこの真珠のアクセサリーをくれたわけではない。私のことを大切に想ってくれているから、くれたのだろう。特段何かに秀でているわけではなく、“なんとなく” 生きていても、自分の意思や自分らしさを大切にして生きていれば、それでいいじゃないか。
目に熱いものが溢れてくる。胸に詰まっていた苦しみが、身体から出ていく感じがする。
30代。この10年間は、もっと自分のことを大切にし、真珠、そしてダイヤモンドのような輝きを放つ存在に少しでも近づけたら…と願う。