就職するまで、私は残業なんかしないぞと思っていた。学生時代、〈水曜日はノー残業デー〉というポスターがバイト先の事務所に貼ってあるのを日々目にしていた。軽く色褪せているのがまたなんとも哀愁を誘う。
誰からも気に留められていないその貼り紙を見ながら、仕事というものはそんなに「定時」というものが当てにならないものなのかと疑問を抱いていた。
しかし、就職1年目で残業が当たり前になった。残業しないと終わらないことってあるよね。
そのうち、業務内容でどのくらい残業になるかがざっくりとでもわかってくる。なのでお腹が空かないようにとか気持ちが途切れないようにといった対策はできなくもなかった。ただ、初めて12時間職場にいたあの日はさすがに辛く、数年経った今もよく覚えている。
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就職して半年以上が経過した頃。その日は通常業務に加え、上司から引き継ぐ仕事を初めてやることになっていた。
開始時点で残業に突入しているため、すでに帰宅された方の席をお借りし上司の隣で業務にあたる。あらかじめ予習して準備はしていたつもりだったが、いざパソコンを前にしてそれが全然足りなかったことを悟った。希望としては一つひとつ確認したいくらいなのだが、上司はなぜか不機嫌オーラを発しているように見え、声をかけるタイミングが見つからない。
その場には私達以外にも2、3人ほど残っていたのだが、そのなかの1人である部長が別部署の人のことを「困るんだよね〜」と笑いながら大音量でしゃべっていた。
私は比較的敏感なたちで、例えば近くにいる人の動作が少しでも荒くなったり声色に棘を感じたりするだけで縮こまってしまう。
直接自分に関係ないのはわかっていても、自分に向けられているかのように言葉や雰囲気が刺さってくるのだ。
普段の業務だったらお手洗いということにして席を外していたところだが、今はそういうわけにもいかない。耳をたためるシステムをすぐにでも搭載したいと思った。
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部長の愚痴話に付き合う他の先輩方、話を振られるとニコニコ応えるもそれ以外は無表情になる上司、全く進まない仕事、どんどん進んでいく時間……。
ゴールが見えない絶望感と全然できない自分への焦りや苛立ちがピークに達したとき、視界がにじみ、まもなく涙が頬をつたった。拭くとあからさまだし、どうせ誰も見ていないのでそのままに任せる。しかしこれ以上進展しないことは明白だったので、どの段階でお伺いを立てようかを考え始めていた。
結局どうやって切り抜けたのか記憶にないが、次に覚えているのは帰りに立ち寄ったスーパーで半額シールが貼られたお弁当を購入し、イートインスペースで食べているときのこと。普段なら買わないであろう比較的ガッツリ系のお弁当。それをスマホで撮って、母にLINEを送った。甘えん坊と思われても仕方がないが、すぐにでも優しい言葉が欲しかったのである。
「いっぱい食べてね」
その言葉に安心し、私はひたすら箸を動かし続けた。
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継続は力なりとは言うもので、その業務にも少しずつ慣れ、あの日ほど残ることはなくなった。自分の落ち度も含めいろんな意味で勉強になったが、「朝から来ていてもあの時間まで職場にいることもある」という前例ができたことで少し強くなったように思う。
もちろんこれには諦めの境地みたいなところもあるので美談にするべきではない。しかし「終わらないよぉ」という焦りと悲しみの気持ちが支配して仕事が進まないよりは「まあ、そういうこともあるよね」という気持ちがあったほうが結果的に早く帰れるのかな、と考えるようになった。
もうその職場は辞めてしまったけど、あの経験ができて今となっては良かったと思う。