わたしにはスケジュール帳兼日記帳として使っている手帳がある。ふとした拍子にそれを見返すのが好きなのだが、この前初めて、「この期間すごい量の予定入っているな」と思うタイミングが一年に一度くらいあることに気づいた。
最初は単に予定が被っているだけかとも思ったのだが、日記と照らし合わせて見た時、あることに気づいた。

◎          ◎

大好きな祖母が亡くなったとか、初めて彼氏に振られたとか、愛着の染み付いた街から離れなければいけなくなったとか、自分にとってとても悲しいことやつらいことがあった後、とにかくいろんな予定を詰め込んでいるようなのだ。わたしの予定の詰めかたのすごさは他人から見ても定評があって、ランチ・お茶・飲みと相手を変えて1日に違う予定を3個入れる、大阪にいたと思ったら九州に移動している、など、けっこうぶっ飛んでいるのだが、それが連日続いたりしている。あとは数年ぶりに会う人に突然声をかけていたりと、量だけではなく質もいつもよりダイナミックになる。

それはつまり何を意味しているかというと、わたしにはどうやら「悲しいことやつらいことを楽しい気持ちでカモフラージュしようとする」癖があるらしい。しかも「楽しいこと」のボリューム感は、悲しさやつらさの程度にわかりやすく比例している。よく自分のことを「基本的にポジティブでいつも楽しく、何かあっても立ち直りが早い」と思っていたのだが、それにはからくりがあったのだ。自然に起きていたことではなくて、自分でそうなるように仕向けていたというわけ。

◎          ◎

結果的に、気分としてはくよくよとする時間よりも楽しい時間の方が多くなり、ハッピーなのかもしれないが、本当にそれでいいのだろうか?と考えてしまった。その出来事に直接向き合って自分の気持ちを対処することをできるだけ避け、別の気持ちで上書きしてしまっているわけだから。思い返してみれば、気持ちをリカバリーするのに体力を削っていて、「楽しい〜!」の気持ちの後にはどっと疲れていた気もする。20代の今はいいけれど、今後同じやり方は通用しなくなってくるかもしれない……。

なんて考えてみたけれど、今のところこの癖は抜ける兆しがなさそうかなあ、と思った。悲しい気持ちやつらい経験は大事だけど、いつまでも握りしめておくものじゃなくて、手放したっていいんじゃないかというのがわたしの持論である。そっくりそのまま忘れてしまうのとはちょっと違って、「そういう気持ちもあったな」ということはきちんとどこかに記しておいた上で、その時のしんどさみたいなものとはスッと距離を置いてもいいんじゃないかと思っている。

ただ、その手段として今のままではやや荒療治かもしれないから、もう少しマイルドな方法を見つけられたらもっといいだろうな。そんなふうに考えながら、今までわたしのしんどさを取り払うのに(人知れず)協力してくれたみんなにありがとう、と思った。この裏事情を話すことは今後も基本的になさそうであり、「久しぶり〜!」と言いながら誰かに会えるのが普通に楽しみでもある。