美容整形との距離は近くて遠い。
思考と現実の話だ。
私の思考的には美容整形にはなんの否定もしないし、やりたくて出来るのならすればいい。
選択肢のひとつだし通過点のひとつだとも思う。
綺麗になりたい、変わりたい、各々の背景が様々にあってそれらの行着く先のひとつが整形だっただけだ。
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私はエステサロンで働いていた事があり、そこは美容クリニックと提携があり整形も行っていた為関係する言葉が耳に入るので、そこでもまたひとつ整形がなんて事ない理由が増えた。
元々美容全般に対して興味はあったし、知識や情報として知ることは好きだった。整形そのものにもそこまでマイナスな印象を受けたことはなかったし、きっかけは無いけど別にやりたいならやれば良いくらいに思っていた。
そもそも、整形に対して大きく否定的な人の心情がいまいち分からない。とはいえ、例えば親が愛をもって産んだ子供が面影もなく変わったとしたら、理由や背景によっては負の方向に作用しても仕方ないのかもしれない。
だけど、プラスとマイナスは常に表裏一体であると私は思う。故にどちらかの状態から整形という行動に繋がっているのだ。それらのいずれにもあるのは“変わりたい”という思いであり、私はこの思いほど純度の高いものはないとも思う。だから、それが整形で叶うなら何をそんなに否定されることなのかと疑問を抱いてしまう。
だから、私は整形をした。
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とは言っても、目をほんの少し手を加えた程度だけど。
学生の頃からしっかりとした自分の一重の目が嫌だった。
同じタイミングでメイクに興味を持ち始めていて、その好奇心は膨らむ一方だった。当時はメイク雑誌を相当読み漁った。中には、奥二重や一重の為のメイク方法もあってもちろん実践してみた。だけど違う。私がやりたいのは今の目を生かすメイクじゃない。道具や手法に制限やポイントを加える事でもない。
“この目だから”という前置きを外したメイクがしたい。それだけだった。
それから母親に言った。「大人になって、それでも気持ちが変わらなかったら二重に整形するから」と「自分でお金が払えるなら良いんじゃない」母親は笑ってくれた。
整形は気持ちを前に向かせてくれるきっかけにもなる。
数年後私は本当に目の整形を行った。驚くほど短い施術時間だったけど、確実に世界が変わった。
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二重になったらメイクが楽しくなるなんてもうそこへの関心よりも、ただどんな時も自分の目が二重なのだという事実が私の顔を上げさせるのだ。
母親にはもちろん、身近な友達にもわざわざ自分から言うほど、私は内側から気分が上がっていた。
こんなに身を持って思うのだから、整形との距離感が遠いのはもったいない。
一方で、予想していた現実が起きる。
冒頭で、整形がしたくて出来るのならすればいいと言った。そう、やりたいの気持ち片方だけでは出来ない。希望を叶える為にはどうしたってそれが出来るだけのお金が必要なのだ。これが現実で距離の遠さを思わせる要因である。
気持ちは勝手に湧き出ても来るし、意思の持ちようで作ることも出来る。お金はそうはいかない。
働いて少しずつ作り出す。勝手に貯まることなどまずあり得ない。
そして、整形の金額は大きめである。時代が進むに連れて技術も進歩し、身近になって来たのかそれらが金額に反映しよりリーズナブルになんて言われるようにもなって来た、それでも“ちょっと今から”のノリで必ずしも払える金額ではないものがほとんどなのは変わらない。
それに、一度経験をして得られた喜びはなかなか忘れられず、次に目が向いてしまうものだ。
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もう少しこうしたい。もっとこうなれば…実際私も二重になったこと自体に満足はしているし、人に見られる仕事でもないので十分に生きていける。
だけど、そういうことではない。
考え方も言い方も色々だが、お金があれば選択出来る手段のひとつが整形なのだ。
私は今でも思う。お金に余裕があれば整形するのになと。
だから私にとって、そういう意味では距離が遠いのだ。
気持ちだけでも、お金だけでも成立しない。
ともすれば、私と整形との距離感は0なのかもしれない。