私にとって美容整形は、どこか放っておけない存在だ。橋の向こう、対岸に建つ白亜の礼拝堂のように。常に視界に映る範囲にある、橋を渡ることもできる、意識してないといえば嘘になる。

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美しいものが好きで、美しい人が好きで、けれど美しいものを愛する肝心の自分は全く美しくない。

だから何か強烈なきっかけさえあれば、もしくは単純に気兼ねなく使えるお金があれば、美しい存在になる為に美容整形する可能性はいつだってあったと思う。

だけど、それをしてこなかったのは何か感動的なエピソードがあったからでも、自分を肯定的に受け入れられているからでもない。

むしろ、自分という存在を否定し続けるために私は美容整形を選ばなかったのだと思う。

美しい人の美しさはそれが神様に与えられたものであろうと、自らの努力で得たものであろうと関係なく、私にとって等しく尊いもので、美しさを手にいれている人の全てを肯定したい。

だからこそ、自分が美しくなってしまうことは許せない。

美しい人を愛しているからこそ、自分が美しい人と同じ世界に行くことはできない。やっぱり私にとって美しくなること、そして美容整形とは、見ることはできても行くことはできない礼拝堂のようなものなのだ。

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そして同時に、私は美容整形やその選択をした人を責めたり揶揄する人達のことが許せない。

美しくなりたいという願いを誰も否定することはできないのに、どんなことでも自分で選択したことなら尊重されるべきなのに、少なくとも怖くなかったはずなんてなかったはずなのに、美容整形というフィルターが一枚挟まるだけでどんな言葉を投げつけてもいいとなぜ思えるのだろう。当事者ではない私だって結局何もわかっていないのだけれど、「何もわかってないくせに」と思ってしまう。

美しいものを愛している私はこの世に1人でも美しい人が増えるのが嬉しいし、自分のなりたい自分に進んで近づくその勇気に感謝したい。

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ただ、その人達は世界に自分1人だけだったら果たして美容整形をしたのだろうか?とも考える。もしかしたら私のような美しいものや美しい人を愛してしまう存在がいるからこそ、美容整形という選択肢はこの世に生まれ出てしまったのだろうか。そう考えると、強烈な罪悪感に襲われる。鏡が割れれば人を傷つける凶器になるように、自分の美しいものを愛する気持ちが、裏を返せば誰かを傷つける世界の礎になっているかもしれない。

それでも美しい人を見て高揚する心や、ずっと見ていたいという欲を無視することはできずに、愛情と罪悪感の板挟みになってしまう。美容整形を叩く人達へ怒るのは、その板挟みの息苦しさをごまかしたくて、自分を顧みるのが怖いからなのだろう。結局、本質的にやっていることは同じかもしれないのに。

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ただ、少し前であればこんな風に考えることすらなかったかもしれない。美しいものを愛する自分、そして美容整形に「理解のある自分」というお門違いのまなざしに酔っていたと思う。自分の中にある醜い気持ちが美容整形という存在によってあぶりだされるのも、なんだか皮肉な話だけれど。

人間の美しくなりたいという欲望が止まらず技術も進化していくように、人間の美しいものを愛したいという欲望を止められないなら、自分自身の心や欲望、愛し方と向き合いながら進化していくしかない。

そして、すぐには美しさの基準や美しくあることを求める世界を変えられないなら、せめてこの世の美容整形という選択肢を選んだ人がみんなみんな幸せであるように。

自分の美しさを愛せるように。

私は今日も祈りながら対岸を見つめている。