金曜日夜21時。美容院を出た私の髪を真夏の夜風がなでる。
いつもより足取りが軽いのは、華金の新しい楽しみ方を知ってしまったから。
そして、その楽しみ方がもたらしてくれたのは、身体全体で呼吸をする学びだったから。
この後の予定はない。ただ帰路についているだけ。
それでも、自分のためだけに巻かれた髪の毛が新しい金曜日の夜にぴったりだった。
◎ ◎
その年は、仕事が煮詰まり、自分の将来について漠然とした不安を抱えていた。
新しい世界を知りたいと転職した会社で3年目をむかえ、当初の予定では新たな行動をするはずの年になっていた。
前職を辞める際に、次の3年で新しいチャレンジをして、そして本当にやりたい道を極めようと思っていたのだ。
しかし社会は甘くない。自分と対話する十分な時間が取れないまま2年が過ぎていた。
このまま時間だけが過ぎていくのかな、そんなことを考えていた時だった。
なんとなく髪の毛が重たくなってきたため、美容院の予約をすることにした8月中旬。
しかし、学生の頃から通っていた美容院は少しずつ雰囲気が合わなくなってきたため、会社近くで新しい場所を探すことにした。
会社の飲み会や接待をすればするほど苦しみが増していたため、あえて金曜日の夜に予約した。
◎ ◎
当日、そそくさと職場を出て、華金でごった返した表参道の坂を下っていく。
初めて訪れたその美容院は、表参道のメインストリートを外れた一本道の地下にあり、大きなシャンデリアが異世界を思わせてくれた。
その時の私にはぴったり過ぎるほどの非現実的な世界観。
丁寧なカウンセリングの後、見るからに優しそうな美容師さんがシャンプーブースへと誘導してくれた。
まだ頭の中には今週の仕事での出来事、来週のスケジュールがぐるぐる回っており、シャンプー台に寝そべっても全くリラックスしていなかった。
目を閉じればさらに思考が駆け巡る。
しかし、温かい水が頭を濡らした瞬間、思考が停止した。
「熱くないですか」
美容師さんの質問にも即答できないくらい、何も考えられなかった。
温水とともに思考が流れていく。シャンプーのフローリッシュな香りに包まれ、髪が洗われていくのと同時に、頭もクリーニングされていった。
鏡の前に戻った時には、自分でもびっくりするくらい明るい顔をしていた。
切り落とされていく髪の毛と一緒に、凝り固まった悩みや思いも床に落ちていく。
美容師さんも察してなのか、仕事の話は最小限にして、美容院周辺で最近できたお店やおすすめのランチ場所を教えてくれた。
そして極め付けのヘッドスパ。
シュワっと、泡が頭皮に触れたと思えば、今度はスースーした爽快感が駆け巡る。
マッサージによってその爽快感がより強まる。
そして温かいシャワーを感じた時、思った。
頭皮が呼吸している、と。
◎ ◎
私はしばらく呼吸ができていなかったのかもしれない。
グッと眉間に皺を寄せ、呼吸を忘れて睨み続けるパソコン画面。
まるで息を殺しているかのように参加する会議。
息つく間もなく、退勤と同時に向かう飲み会。
深呼吸はおろか、十分な呼吸をすることなく過ごしてきた2年間だった。
「頭皮が柔らかくなると、身体全体の凝りも改善されて、表情筋も緩まるんですよ」
天からの声のように、美容師さんの説明を黙って聞いていた。
この後の予定はないと伝えたものの、美容師さんはせっかくだからと、綺麗に髪を巻いてくれた。
スプレーは使わずに、家に帰ったらこのまま眠れるようにとオイルで仕上がった髪を夜風になびかせながら、意識はまだ呼吸をしている頭皮に向いていた。
そして思った。
もっとちゃんと呼吸をしよう、と。
まだ25歳。人生は長距離だ。
丁寧に呼吸して、肩の力を抜いて、長く長く走るんだ。
キラキラしたメインストリートを深呼吸しながら歩いた、そんな夜だった。