澄みわたる空の下で明石海峡大橋を渡ると、たまねぎスープを求めてサービスエリアへ駆け足で車から降りる。そこは淡路島の絶景が広がる。

こうして夏休みになると、よく家族で淡路島に旅行したものだ。海水浴からのプール付きの温泉に入るのが、私の楽しみであった。淡路島の空は澄み渡っていて、どこへでも行けそうな開放感に満ちあふれていた。

夏のリゾートといえば、今でも淡路島を思い浮かべる。小学生の頃、家族で夏休みに旅行で訪れた淡路島は、私にとって癒しの地である。

何年か訪れていないうちに、新しい観光スポットが充実してきたとバラエティー番組で目にすると、癒しを求めて淡路島で夏のバカンスを堪能してみたいと望む人は私だけではないのだと思った。

まったり、くつろぐことを許し、あたたかい癒しの時間に包み込まれていく。そんな淡路島の有名老舗ホテルで食べた海鮮丼を思い出すと、やっぱり贅沢さと都会の騒音から離れたリラックスした時間に愛おしさを感じるし、「帰りたくない」と思うほど淡路島の魅力を知る楽しさは、何年たっても色褪せないものだ。

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そっと海に足から浸かって、水面に浮かぶクラゲ恐れながら泳ごうとした小学生の私は、自然に触れる瞬間を一心不乱に味わおうとしていたのかもしれない。それほど淡路島の海には、沢山の魅力が詰まっているのだ。

人魚になった気分で一時間以上は、しっかり海に浸かっていた私にとって、海の家で食べるカップラーメンは家で食べるより塩気が増して絶品だった。淡路の海で食べるカップラーメンは、幸せを運んでくれる青い鳥が旅先でプレゼントしてくれたものみたいに感じて、海風にあたりながら海を見て食べる時間は一瞬で過ぎてしまうからこそ、スープまで飲み干してしまいたいくらいだった。

そして夕暮れ時になると海からあがって、プール付き温泉施設「ゆーぷる」へ向かうのは、一次会から二次会へハシゴするようなワクワク感があった。

潮の香りが漂う淡路の海から、地元の老若男女が通うようなアットホームな「ゆーぷる」へ向かうのは、旅先の欠かせないスポットでありながら、淡路島の住民の暮らしを体験しているよにも感じて、旅することの開放感を噛みしめた場面であった。

淡路島の豊かさを欲張りたいと思う瞬間は、旅先から帰ってきた時の方が色濃く感じられるのは確かだといえる。

旅の間は「楽しい。ずっとここにいたい」と思うし、旅からの帰り道では自宅に近づいていくほど「ああ、帰っていくのか」とセンチメンタルに感じる瞬間も悪くはないなあと私は思っている。また、あの開放感のある街に行くために生きる。時間の関係で行けなかったところは、また今度行こうと次の宿題に持ち帰るのも楽しみの一つである。

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淡路島だけでなく、遠くへ旅に出かけることは、まさにエモーショナルな瞬間だと思う。

普段、あまり喜怒哀楽が激しくない人でも知らない土地に行くだけで、自分の新しい一面と出会うきっかけに繋がるのかもしれない。もし、これから先、人生に行き詰った時は旅をするのが最適だと思うし、その土地の人と出会うことで刺激を受け今まで知らなかった自分の一面と出会えると思うと、あえて行き当たりばったりの旅をしてみることも新鮮で面白いのかもしれない。

三年ほどまえに伊勢に行ったとき、私は初めて夫婦岩に隣接したお土産屋さんで真珠のネックレスに惹きつけられた。店内に並べられた真珠ひとつひとつに吸い寄せられるように眺めているうちに、「どれにしようかな」と選び始めている自分がいた。そこにいた、ただ者ではない不思議なオーラを放つお店に立つおばあちゃんの雰囲気にも、気づけば惹きつけられていた。そのおばあちゃんに接客を受けながら、真珠のネックレスを購入したとき、私は思わず笑みがこぼれた。

旅先で出会う空、食べ物、観光名所から、いつでも呼び寄せられたいものだ。