最近の読書生活で気付いたことがある。それは、エッセイを書く人々の自己分析能力の高さである。皆、何故これほどまでに“自分”を知っているのか。エッセイでは、様々な出来事を語るにあたり、自身の性格に触れることが多いからなのだろうか。

私は考えた。人間は、エッセイを書くことで、自己分析能力を高めることができるのではないか。はたまた、自己分析能力が高いから、エッセイを書くことができるのだろうか。まるで、卵とニワトリはどちらが先かというような疑問が、私の頭の中をぐるぐると渦巻いた。

それならば、身をて、疑問を解き明かしてやろう。そう思い立った結果が、今回のエッセイである。

つまり、私が秋にしたいこと、というか、これから長期間にわたって続けていくかもしれないこと。それは、エッセイを通じて、自分を分析することである。あるいは、自分を分析することを通じて、エッセイを書くことだ。

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というのも私は、自分自身の情報を把握することが、大変にへたくそなのである。

表面的な情報については、この21年間で、写真や鏡を通じて、ある程度理解を深めることができた。目と目の間は割と近いほうだとか、顔の黒子は目立つものだけでも5つはあるとか、口は大きめであるとか。

しかし、内面についてはどうだろう。幼少期と比べても、殆どと言ってもいいほど、理解度が変化していないように思える。

つい最近、中学時代からの友人と、私を含めた4人でラウンドワンへ遊びに行った。

私の地元には、遊び場が少なく、一番近いラウンドワンでも車で40分はかかる。そのため、車内では思い出話に花が咲いたのだが、話の流れで「中学時代にもう少し気が強かったらなー」というような発言をした。

すると、3人共が、あなたは十分に気が強かった、と力説してきたのである。私は本当に驚いてしまったのだが、3人の話をよくよく聞いてみると、物事に対してはっきりと意見を述べるから気が強いと感じる、ということであった。

確かに、私は、物事に対してはっきりとした言葉をぶつける率直な質である。しかし、その率直さと気の強さが、同じ括りであるとは考えもしなかった。私にとって、気の弱さと発言の率直さは矛盾せず、そこに存在するものだったのだ。

ただ、私の率直さは気の強さであるとはっきりと言われてしまえば、確かに思い当たる節がないこともない。大人数で何かを決める時には強めに意思を伝えていたし、嫌だと思うことがあればきっぱりと突き返してきた。こうして文字に起こしてみると、気が弱いと思っていたことが、むしろ不思議なほどである。

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これまでの私であれば、あら不思議、で終わっていたに違いない。しかし、今の私はエッセイスト。なぜ、気が弱いと思っていたかについて、考えてみるのである。

うーん、あまり思いつかない。が、1つ絞り出すとすれば、祖父から優しい性格だと言われて育ったことか。実際の所はいざ知ず、祖父の言葉のおかげで幼少期の私の脳には、私=優しい、という公式が組み込まれていたのだ。

そして、幼い私にとって、優しさは大人しさであり、大人しさは気の弱さであった。きっと、その感覚が現在まで頭の奥底に残っていたのだろう。優しさと弱さは、むしろ対極に位置していると今ならわかるけど。
齢21にして、自分の性格をちょっぴり把握することができた私。内面を映す鏡はこの世界にないけれど、エッセイが内面を知る手助けをしてくれるなら、それが私のかがみになる。この秋には、私にとって新鮮な“私”と出会い、“私”をもっと深めていきたい。