お酒との距離感は、自分では調整できないものなのかもしれない。少なくとも友人のMちゃんの場合はそうだった。Mちゃんとお酒の距離を決めていたのは、可憐で優しいお母さんだった。あるいはCOVID-19である。
Mちゃんは役者の卵だった
私と知り合った高校生の頃、Mちゃんはまだ役者を志している演劇部員だった。演劇部の強い高校だったからMちゃんよりも演技の上手い部員はたくさんいたけれど、それでもMちゃんはビリではなかった。美人で手足も長く人目を引くし、何よりも努力家だったのだ。誰よりも台本を読み込んで、朝は一番に来て練習し、部室の掃除は最後まで残る。あのまま続けていたら、大女優とは行かないまでも、一端の役者として細々と舞台に立ち続けることはできていただろう。
だけど看護師のお母さんに育てられたMちゃんは、役者になる夢に蓋をして看護師になった。本人は役者も看護師も両方憧れの職業だから今の自分に悔いはないと言うけれど、それは看護師ではなくお母さんへの憧れじゃないの、と私は思ってしまう。それでもきっと本人が悩み抜いた末の決断だろうからと、あまりそのことには触れないでおいた。
大人になってから私たちは何ヶ月かに一度は必ず飲みに行き、たまにお互いの家に泊まった。仲の良い友人だったと思う。それが狂い始めたのは2020年くらいで、ちょうどコロナが流行り始めたあたりだ。
緊急事態だから仕方ない?
Mちゃんの勤めている病院の一部がコロナ病棟になって、まだ若手の立場だったMちゃんは良いように使われた。日々更新される感染症対策についての情報、患者の家族からのクレーム対応、家庭内感染で休む同僚、ギリギリの現場を回す先輩からの八つ当たり、Mちゃんは全部受け止めていた。看護師は後輩をいじめることが多いと聞くが、Mちゃんの職場ではMちゃんが1番若かった。
ある時Mちゃんの家に泊まりに行って、ありえないほどの酒の瓶とストロング系チューハイの缶が袋に詰まっているのを見つけ、もう手遅れだと分かった。明らかなアルコール中毒だ。飲むのをやめるよう促したけれど、取り付く島もなかった。それでもMちゃんは仕事を辞めなかった。そしてまた、飲酒もやめなかった。
何もできないなりにMちゃんと会う頻度を増やし愚痴を聞くようになって、分かったことがあった。Mちゃんが仕事を辞めない理由だ。端的に言うと、お母さんを失望させたくないらしい。お母さんの生き方をなぞることで、自分の人生をかけてお母さんを肯定するつもりのようだった。
ばからしい。娘がアル中になってお母さんが喜ぶと、本気で思っているのだろうか。その程度の判断力ならもう看護師なんて辞めちゃいなよ。心の中で非道な悪態をついた。だけどMちゃんがこうなったのは、本人のせいじゃないのだ。コロナのせいだ。緊急事態だからなのだ。そして何より、可憐で優しいお母さんを、孤独にさせたくないからなのだ。「この子は私と違うみたい」と思わせないように。「私にはこの子がいる、理解者がいる」そう思ってもらえるように。
飲酒の意味とMちゃんの選択
お酒は自分の意思で飲みなよ。大人になるってそういうことだよ。そう伝えてMちゃんの家を後にした。また泊まりに来るつもりだった。もう大人なんだし、お母さんのことに囚われてないで、自分で自分の人生を決めなよ。Mちゃんはちょっと泣いて、そこから軽く喧嘩みたいになって、それでも私は2年に渡りMちゃんの愚痴を聞き過ぎて疲れていたので、慰めずに帰った。
翌日の夜に電車の中で、ふと「Mちゃんはまだ演じているのかもしれない」と思った。お母さんの娘を演じて、看護師を演じて、健気な後輩を演じて、Mちゃんの役者根性はそこに表れているのだ。そしてお酒を飲んでいるとき、酔っ払っているときだけは、演じることをやめられるのではないだろうか。
悪いことを言った、と後悔した。舞台を仕事にするだけが役者ではない。看護師として働き役者として生きることを、Mちゃんは選んだのだ。どう足掻いてもお母さんの影から逃れられないことを分かって、その道を彼女は選んだのだ。お酒を飲んでいる間だけは看護師でも役者でもお母さんの娘でもなく、Mちゃん自身になれるのだ。
電車を降りたあと、急いでMちゃんに電話を掛けた。出なかった。あれから電話は繋がらない。私たちは友だちではなくなってしまったらしい。だからMちゃんがアル中を治せたのかどうかは分からない。いつも酔っ払っていた。診察を受ければ十中八九診断は下るだろう。そういう状態だった。
私の間違い
もう連絡が取れなくなった今、本人には伝わらないけれど、それでもやっぱりMちゃんがMちゃんらしくいられることを願っている。自分を押し殺して役割を演じて、その分を取り戻すようにお酒を飲んでいたMちゃん。自分が自分であることをお酒なんかに頼らなくても、何も演じないでいられるような仕事を、親子関係を、生き方をしていてほしい。
私は「お酒は自分の意思で飲みなよ」なんて偉そうなことを言わずに、ただそのままのMちゃんのことが大好きだと伝えれば良かったのだ。Mちゃんが自分らしくいられるように。お酒に頼らなくていいように。ごめんね。