コロナ禍がけて、ようやくマスクを外して生活することに罪悪感を感じないようになった。世の中は前向きに動き出しているはずなのに、私はこれからどう生きていくべきなのか、見つけられずにいる。

まるで船を失った私は、流れ着いた緑豊かな島の森の奥深くで1人、次の目的地を決めかねているようだ。乗れなかった波は、どこか遠くの海岸で誰かの背中を押してるんだろうか。

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2020年2月。スイスに留学中だった私は、春休みの1週間だけ一時帰国していた。その時はまだ「中国で変な風邪が流行ってるらしいよ」と噂されているくらいで、「また中国か」くらいにしか受け止めていなかった。

その後、帰国して大学の現代音楽の講義を受けて、これからゼメスターが始まろうとう時に、ヨーロッパでもパンデミックが始まった。
スイスの政府は判断が速く、街中は一気に外出自粛と商店の営業停止が始まった。それでも呑気に友人宅で勉強会をして、夜になって家に帰ろうとバスに乗ると、浮浪者とおぼしき老人の男性が大きな声で何かわからないことを叫んでいたり、駅で知らない男の人に追いかけられたりした。

日本より安全なはずのスイスで、そんな怖い目にあったと話すと、みんなが驚いていた。

一時帰国からわずか1ヶ月後の3月半ば、私は日本に戻ってコロナ禍の日々を過ごし始めた。

授業は全てオンラインで行われるようになった。日本とスイスの時差は7時間。あちらにとっての朝イチがこちらの夕方で、こちらの夜にあちらは夕方。都合のいい時間を合わせるのが大変だった。

6月の半ばに差し掛かると対面レッスンが再開するということで、一旦スイスへ戻ったが、そこからすぐに夏休みが始まって帰国し、その後9月から秋のゼメスターが始まるのでまたスイスへ。

短いスパンでの行ったり来たりの生活。移動の度に高額なPCR検査の陰性証明書の準備や、コロコロと変化する入国の条件に、常にアンテナを張っていなければならなかった。

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翌2021年2月。この年は、日本でいくつかのオーディションがあり、私にとってもチャンスの年だった。

けれど変異株の出現などで状況は去年よりも悪化していて、いよいよ国境を超えての行き来が難しくなっていた。苦渋の選択で半年の休学届を提出し、秋のゼメスターには戻るつもりで帰国した。帰国後は疲労からか体調を崩し、また契約していた学生寮から閉鎖するから夏までに出て行けと連絡が入ったりと、思うように行かないことばかり続いた。

さらに時差ボケのせいで体調が悪いのかと思っていたけれど、どうしようもなくなって心療内科に通院するようになり、7月のある日、ついに楽器を吹けなくなってしまった。

このままでは死んでしまうと思い、学校はもう半年休学を伸ばし、7月にスイスに一旦戻って寮の部屋を引き払うことにした。

7月の末で寮を出てそれから2週間、スイス横断旅行したのち、日本に完全帰国。

一応休学中の学生という体で職探しと婚活を始め、医者の勧めでジムに通うようになった。すると体重はみるみる落ち、さらに2022年の5月から中途で採用されたアパレルブランドで、正社員として働くようになった。

それから1年とちょっとが過ぎた。初めての社会人生活に辟易としながら、与えられた仕事をこなす。何度か辞めようかと悩んだけれど、服欲しさに辞められずにいる。

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もしパンデミックが起こらなければ、今頃どこで何をしていたんだろう。少なくとも、百貨店で洋服は売ってなかったはずだ。しかし、もしパンデミックが起こらなければ、痩せて綺麗になることもなく、自分の稼いだお金で欲しいものを買う生活も手に入らなかった。

夢と引き換えに、年相応の女性の生活を得た。満たされているはずなのに何かが枯渇していて、このままではいけないと叫び続けている。けれど勇気の出ない自分は、二の足を踏み続けている。安定を手にすると、人はこんなにも臆病になるのか。

次の目的地はまだまだ決まる気配がないけれど、決めずにいるのは自分自身だ。