大学の友人から言われた一言で、私はハッとした。私のある習慣に対して、自分の価値観と他人の価値観がこんなにも違うのかと気づかされた。
ある日の会話を再現する。「Aちゃんっていっつもスタバで勉強してるよね……結構出費かさまない?」と伺う友人。「そうかな?もう習慣になってるから必要経費だと思ってる」と私が返す。「スタバが習慣って人生勝ち組じゃん。恵まれてるね」と友達が言う。そこで私の頭に浮かんできたのは、「恵まれてる……?」という疑問だった。友人たちから見た私は恵まれているからスタバに行く人。でも、私から見たスタバに行く習慣は恵まれていることが理由ではなかった。
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私がスタバで勉強するようになったのは、高校生の頃。私の家は勉強ができるような家庭ではなかった。小学生の頃は学童保育に預けられている時間に勉強をしていた。中学生の頃は、近所の図書館に通っていたけど3年生の時に図書館での自習が禁止になった。それからしばらくは公民館のオープンスペースを利用していた。しかし、図書館も公民館も閉館時間が早いことが難点だった。そして、高校生になった私が行きついたのがスタバだった。
通っていた高校の最寄り駅にスタバがあり、22時まで営業していた。高校の閉校時間が19時だったので、19時までは学校の自習室に引きこもり、19時から22時までの間スタバで勉強していた。高校で仲の良い友人も、家に帰りにくい事情を抱えていたので、友人も当たり前のようにスタバで自習していた。私の生きてきた環境では、スタバで勉強することは当たり前のことだった。
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「スタバは割高だ」と言われるけれど、それは1杯のコーヒーに対しての評価だと私は思う。私は、人間の健康を害さない室温で、他人の邪魔が入らない空間に、対価を払っていた。コーヒーはおまけでついてくるくらいの感覚だった。だから、「スタバはコーヒーにしては高い」という感覚が私にはあまりなかった。時間と空間にお金を払っていたので、「カラオケと同じくらいの価格で快適な勉強環境が買える」という感覚でいた。
こうして私に、スタバで勉強するという習慣が身についた。しかし今、私は高校を卒業し、実家を出た。それならば、「自宅でも勉強できるようになったよね?」と思う人が多いだろう。だが、私は「自宅で勉強する」という選択肢に気づけないまま大学生活の半分を終えていた。よく考えてみると、自宅で勉強するという経験がほとんどなかったため、大学生になっても、勉強をするためにスタバに通っていたのだ。
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そうして、冒頭の大学の友人との会話で、スタバに通う習慣は恵まれていると思われていたことを知った。私の中では、金銭的に決して余裕があるわけではないが、学費や交通費と同じように必要経費という感覚で使っていたので、そう思われていたことにかなり驚いた。
スタバで勉強する当事者の私は、この習慣を、恵まれていることの象徴ではなく、社会のしわ寄せの象徴だと感じている。家庭で勉強できない環境の子供は少なくない。しかし、税金で運営されている図書館でさえ、自習を禁止する流れになっている。商業施設でもどんどん自習禁止のルールが追加され居場所を奪われていく。そうすると、私たちのような人は少し高くても自習のできるカフェにお金を落とす習慣が身につく。そして、それが当たり前だと感じている。
こんな習慣を当たり前だと感じている社会は果たして、子供を健全に育める社会なのだろうか?昨今、少子化対策、子育て対策を色々と打ち出しているが、私は子供がお金を払わなくても安全に勉強できる環境を整えてほしいと強く思う。