執筆活動をしていると、ぼーっとする時間の重要さを感じる。
「なんか嫌だったな~」「なんか生きづらいな~」「なんかドキドキしたな~」と、思うことは日常的によくある。しかし、枕詞につく「なんか」は曖昧のまま日々が過ぎていくことが多い。その、「なんか」を追求することがエッセイの真髄だと私は思う。
しかし、現代社会では、よくわからない、目にも見えない「なんか」を追求する時間は、評価されにくく、行う人も少なくなっていると感じている。
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なぜ、現代社会は「なんか」を追求しにくいのか……。私が感じた要因を少し紹介する。
まず、結果至上主義な社会だからだと私は思う。「それで?」「で、どうなったの?」「え?オチは?」と会話の中でよく耳にする。行為の先に結果を見出せないと、無価値なものというレッテルを貼られる。
「なんか」を追求したところで、目に見えた成果が出ることはほとんどないし、その先に明確な答えが待っているとは限らない。「何だったんだろう、今の時間……」「この時間があれば、ドラマが見れたのに……」なんて感想が出てくることも少なくない。
そして、物も人も情報もあふれた社会だからこそ、自分に向き合う時間が作りにくいと私は感じている。暇をつぶす方法が星の数ほど存在しているからこそ、考えることに時間を使う人が少なくなったのだと思う。スマホが普及した今、「手持無沙汰」なんて言葉はめっきり聞かなくなった。
聞かなくなった言葉と言えば、「なんか」を形容していた言葉たちも数を減らしている。「マジで」「やばみ」「草」など、「なんか」と同じ状態のまま言葉として発信されることが多い。細かな言葉での表現が失われ、1つの言葉の守備範囲が大きくなったと私は感じている。
それが社会の流れなのに、なぜ私は抗うのか。
それは、「なんか」のままだと、本当に言いたいことを伝えられないし、社会を変えられないと思うからだ。私は、伝えたいことがあってエッセイを書いているし、エッセイには社会を変える力があると信じている。だから、「なんか」を追求しつづけている。
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そんな私も、この「なんか」を追求しにくい社会で生きている。
それなら、私はどのように追求の時間を作っているのか。それは、3kmのウォーキングをすることだ。時間にして約40分程度。この3kmというのは自宅から最寄りのスタバまでの距離だ。スタバに行くという目的をもって歩きに出かける。
この時間、ぼーっとしながら、自分の頭の中でバラバラに舞っている感情や考えを整理している。そして、1つの事柄についてじっと考えたり、事柄同士の共通点を見つけたりしている。
ぼーっと歩いた結果、何かをひらめく時もあれば、結局よくわからないままの時もある。だが確実に、3km歩いた分のカロリーは消費されているし、3km歩いた分の筋肉は成長している。そして、スタバのコーヒーが手に入る。
結果至上主義の価値観にマッチしつつ、物にも人にも情報にも触れられない、ぼーっとした時間を過ごすことができる。
家にいても、やらなくてはいけないことが視界に入りせかされる。カフェに入っても、スマホをのぞき込んでは情報の渦に飲み込まれる。景色を見ることくらいしかやることのない、手持無沙汰と感じるスタバまでの田舎道が一番ぼーっとできる場所なのだ。
私はこのぼーっとしながら歩く、田舎道が一番居心地のいい場所だと感じている。
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私は、日常の中でぼーっとすることは大切だと思うし、田舎道が居心地のいい場所だと感じる。でも、人によって何が大切で、それにはどこが最適なのかは違うだろう。同じ場所でも人によって感じ方も違うだろう。
このエッセイを読んで、「なんか共感できなかった」と思う人もいれば、「なんかわかるような気がする」という人もいるだろう。ぜひ、読み終えた後に、自分の抱いた「なんか」の正体について考えてみてほしい。