コーヒーを飲めるようになったのはいつ頃からだろう。

アラサーの私はそれを覚えていないけれど、確かに子供の頃コーヒーは縁遠い飲み物であった。今では当たり前のように口にするアメリカンも、幼い頃は、吸い込まれるような底なし沼みたいな深さを感じさせる不気味な黒い液体だった。もしくは墨汁。あるいは魔界の飲み物か。

美味しいものは見た目の鮮やかからして美味しさを醸し出しているけれど、それがコーヒーには皆無だ。にも関わらず、「いい香りだ」「美味いと」大人は言う。

何故あれが美味しいんだろう?いつか私も美味しいと思うようになるのか?と幼い頃大好きな甘い乳酸菌飲料ピルクルを啜りながらぼんやり思い描いていた。

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小学校高学年くらいになると女の子の間で「なんとなくジュースはダサい」空気が流れるようになった。少し前まではクー、カルピス、バリヤース、が主流だったのにいつのまにか友達と遊ぶ際にジュースを飲むとなんとなく「お子ちゃまね」の視線。

「アイスティ、ミルクとガムシロお願いします」
なんて友達が言ってるのを横目にびっくりしたのを覚えている。私も慌てて「私も同じの!」とジュースを裏切りアイスティ派に寝返った。アイスティでなんとなく、大人の階段を登った気分でいたけれどコーヒーまでには登れなかった。

読んでいる「ちゃお」の漫画では背伸びしてコーヒーを飲んだ女の子が「まずぅい!」という場面もあったしやはりコーヒーだけはなんとなく子供と大人の境界線のずっと先にある。

飲み物は案外大人の階段に直結している。

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中高生になるとスタバが流行った。クラスで1番美人でモデルのようなスタイルのMちゃんがスタバのマイボトルを持って登校してるのを見て、「ニューヨーカーみたいだ」と誰ががいった。

入浴はしってるけれどニューヨークは知らない私はそわそわしたものである。コーヒー入門はカフェラテだった。コーヒーの癖に美味しいじゃんと思ったのがはじまりである。カフェラテを飲んだ、キャラメルラテも飲んだ。

そしていつの間にかブラックコーヒーがのめるようになっていた。「この味を飲めるようになったから」というコーヒー記念日は特段ない。ただいつの間にか飲めるようになっていた。

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だがコーヒーはたしかに飲めるけれど何故か大人はコーヒーという有無を言わさぬ風潮には違和感がある。猫には小判、鴨にはねぎ、大人にゃコーヒー。

仕事の場などで誰かと会うとき誰もが口を揃えたようにコーヒーと口にする。ココアやクリームソーダを頼むものはいない。子供の頃は大人の象徴のような格好いいものに思えたけれども大人になればコーヒーしか選択肢がないのはそれはそれで退屈で、窮屈に思えた。

喫茶店に入ればこれ程たくさんのメニューがあるのに大人だからといって一択なのはつまらないのではないか? なんとなく窮屈なのを打破したいと思うのが私のさがである。

今度誰かとフォーマルな場で合うときは何を頼もうか?と思うのだ。そんな時はコーヒーを飲めるくせに少し子どもに帰っている私がいる。