「強い子にならなあかん。父さんと母さんがおらんようになっても一人で生きていかなあかん」
私は両親にとって遅く産まれた子供だったから、甘やかされ大事にしてもらった反面、いつもこの言葉をかけられていた。
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「いつか」を意識させるこの言葉が、凄く苦手だった。
共働きだった割に、父母ともに(特に父は、母に任せきるどころか)熱心に育ててくれた。
間にもう一人子供がいてもいいような私たち親子を見て、父が保育園に迎えに来ると「おじいちゃん迎えに来たよ」なんて友達に声をかけられることもあった。
親同士の話題を合わせることに苦労していることも知っていながら、最近まで周りの友達親子をそれはそれは羨ましく思い、気恥ずかしいような気持ちになって、わざと離れた場所に迎えに来てもらったり余計に気苦労をかけたと思う。
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「昔の人」だった父は人一倍厳しく、家の中での礼儀はもちろん、炭酸のような体に悪いものは飲まない、添加物の多いお菓子などは食べない、ゲームは1日1時間、ご飯の時は正座、こたつで寝そべらない等々、本当にルールが多い家庭だった。
よく泣かされて、母に電話をかけていた。
そんな父が、両親を亡くし、私も大きくなり、どんどんまるくなっていった。
そして1年程前、母との電話で、「父さん、最近もの忘れがひどいんよ」と聞いた時には、信じられないような、呆気に取られたような気分だった。
呆然とするも束の間、次から次へと辛いことが待ち受けていた。
私は幼い頃から専門学校を卒業するまで、実家で犬を飼っていた。
チッチという名前の豆柴で、愛くるしい黒い口元が可愛かった。
「チッチって、お父さんが子供のときに飼った犬の名前がサリーで、(1970年代のテレビアニメに出てきた登場人物の)チッチとサリーを教えてくれて名付けたんよな」と思い出話をしたとき、「子供の頃に犬なんて飼ってない。チッチが初めて」と返ってきた言葉に、目の前が暗くなった。
こんなことも今では多くなったものの、まだまだ私の感情にも波があり、流せることもあれば怒ってしまうこともある。
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特に最初は辛く、耐え難いものだった。
父の中から、私との思い出が、父の苦くも愛していた記憶たちが、私の存在が消えていくようで、身を切られるような感覚をどん底の中で味わった。
一緒に出掛け、はぐれて迷子になった日は、悪びれもしない父を責め、大泣きした。
わからなかった。
あんなに厳しかった父が何を考えているのかも、どう向き合うべきなのかも。
事情を知る友人に「お父さん、よくなった?」と聞かれる度、これはもう戻らないんだと言い返したくなるいやな自分を抑え込み、介護職の母に「怒ったらあかんよ」となだめられ、父との間に立ってくれる母の偉大さを知った。
なによりも、友達親子の友人たちのように頻繁に旅行に行くようなこともなく、羨み寂しい気持ちになりながら幼少期を過ごしてきたのに。
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一緒に過ごせる時間がこんなにも少ないなんて、なんで私ばっかりという気持ちが押し寄せた。
暗い気持ちが襲ってくる中で、ぽつりぽつりと私の心に灯るものがあった。
周りの家庭のように旅行に行けない代わりに車でよく県内を走り回ってもらい、クラスの誰より地名に詳しくなったこと。
豆電球の下で抱っこして寝かしつけてもらったこと。
父と一緒じゃないと寝れないと小学校の修学旅行に猛反発したこと。
父の好きだった水谷豊さんが主演の「熱中時代」を夜な夜な一緒に見ては、趣味や世代を超え、誰かの好きな音楽や映画を共有することが好きになったこと。
「温故知新」という言葉が私の中に根を差す程に、古きよきものを幼い頃から贅沢な程に教わり、抱えきれない程の愛に包まれ今の自分になった事実が、より深く自分の中に染み渡っていくようだった。
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本当の優しさや愛情、親孝行についてもの心ついた時から考え、「両親がしてくれたことを、同じように両親に送り続けること」が最大の親孝行だと自分なりの答えをもって過ごしてきたけれど、一つ試練と向き合ったことでまた一つの考え方が形づくられていた。
私は今、父や母の背中を見て自分には到底できないだろうと思っていた介護職や、教育といったテーマに向き合い、若くして身近な人のケアに励むヤングケアラーと心を通わせる仕事を始めようとしている。
私がここに込めるメッセージは、「あなたの在り方で、愛し方でいい」ということ。
大切な家族と向き合い、時に変化を受け入れることは自問自答の連続で、どうすれば幸せになれるのか、ただ幸せに生きたいだけなのにと、疑心暗鬼になることもある。
それでも、迷いがあろうとも、辛くとも、家族を思い必死に涙した日は、紛れもなく愛からつくられている。
私は私の愛し方でこれからも父と母を愛し、自分の人生を重ねて生きたい。
強く、だれかの人生も共に照らしていきたい。
それが両親が私に教え、育み、与え続けてくれた愛だから。