まだ7か月の娘を後ろのチャイルドシートに乗せて、いつもはなんとなく怖くて通らない踏切を渡ろうとした。
ちょうどカンカンカンと踏切が音を鳴らし、遮断機が下がったので、踏切の手前でゆっくり停車したのだが、対向車線の車が踏切の途中で立ち往生してしまった。
原因は対向車線の車の渋滞だった。
◎ ◎
焦る運転手を見ていた私は、たまらず、窓を開けて渋滞する車の運転手に手を振った。
(もっと前に進んで!後ろの車が危ない!)
ジェスチャーでそう伝えた時、気がついた男性の運転手は、数センチ前に進んだだけで、前に車があるからもう進めないことをいかった顔で伝えてきた。
私は呆気に取られた。まだまだ車間距離は十分にあった。人の命がかかっている時に、その程度の協力しかしない人間がいるとは思わなかった。
結局踏切内の車は、ギリギリのところで斜め前方に退避し、事なきを得た。何事もなくて本当に良かったと思った。しかし、私は同時に、助かった運転手の男性も私の方を見向きもしなかったことが気になった。
◎ ◎
もし私が強そうな男性だったら、あの運転手はどうしただろうか?
前の車にギリギリまで寄せただろうか?
退避できた車の運転手も、私に手で感謝を込めた合図を送っただろうか?
思えば去年、結婚して同居を始める時もこんなことがあった。
私が、自分の名義で借りていたアパートを退去する時、不動産会社の若い男性が、私ではなくて夫に事務的な連絡をしていた。
私が借りていたアパートのことだったので、当然夫は何もわからず、「そのまま妻に伝えます」とだけ言ったらしい。
どうして契約者の私ではなく、夫に連絡したのだろうか?
私にはまだ、夫の契約していたアパートの不動産会社から連絡は来ていないのだが。
女というだけで、何もわかっていないように見えるのだろうか。
私が動き回る娘を必死の思いで着替えさせているときに、その様子を戯れと捉えて「俺はワンオペ2人育児だからなぁ」と無邪気に言った夫が内心腹立たしかった。
私を可愛がってくれる気持ちは嬉しいのだけど、それは今じゃない。
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今私は必死になって娘を育児している親だ。
女性という弱者を弱者のまま尊重されたいと願うと誰かが言ったが、私は弱者がいかなる時であっても可愛がられ続けるのであれば、弱者のままでいたいとは思わない。
目の前の誰かが困っている時に差し伸べた手が、女であることを理由に軽んじられたくない。
私個人の問題を、女であることを理由に他者に解決してもらいたくない。
私が必死になってやっていることを、小さくて弱い何かが足掻いているというふうに揶揄されたくない。
小さな不利益は積もる。日常のあらゆる場面で、私はそれを数えている。
男子より足が早かったのにリレーの補欠だった時も、隣のクラスのあの子に背中を殴られたと言ったら、男の子は好きな女の子に意地悪するものよと言われた時も、周りで楽器を習っているのは女の子ばかりなのにプロの指揮者や奏者には男性が多いことに気づいた時も、駅のホームで電車から出て来た男性に思いきり肩をぶつけられた時も、母が父に殴られるのを見ていた時も、お腹に赤ちゃんがいるとわかった時に、「男の子ならいいね」と言われた時も。
ずっとずっと、私は、強くなりたいと願って生きてきたのだ。