「置かれた場所で咲きなさい」
人生を生きる中での、私にとってのお守りでもあり、道標にもなる言葉である。

この言葉は、渡辺和子さんという、キリスト教カトリック修道女の方の著書のタイトルにもなっている、ワンフレーズである。

この言葉に出会えたことで、私は継続することの大切さや運、縁の力を実感することができた。この考えを自分の中に持っていなければ、すぐに諦めて、様々なことをないがしろにしていたかもしれない。

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私は高校受験に失敗し、第一志望校ではなく併願で先生に勧められるがまま受験した、女子校に3年間通うことになった。

当時の私は、「やってしまった」と頭を抱えたものだ。女子校なんて私の性に合わないし、更々行く気なんてなかったのだ。
だが、後に私はこの学校に通ったことで、イギリス留学に旅立ち、英語や海外の人との交流の楽しさに気付き、大学も国際学部、ましてや現在、商社の貿易部で日々英語まみれの生活を送っている。

そして、冒頭の言葉を知ったきっかけもこの母校である。

憂鬱さや不安を抱えながら、「華の高校生活」なんて送れるのだろうかと思っていた、16歳の私に、この言葉は何の障害もなくすっと心にしみこんだ。

過去の自分の失敗から学ぶことはもちろんたくさんあるが、その事実を今更後悔して、嘆いてもあとの祭り。であれば、今の場所で自分ができることに精一杯時間や労力をかけて、私の選択は間違っていなかったのだと物語を途中で変えればいいのだ。

ドラマや映画でも、視聴者が想像しない展開になるほうが面白い。人生も同じだ。
自ら咲く努力を怠ってはいけないのだ。

だからこそ、私は環境や人間関係の変化を臆さずに、すんなりと受け入れられるようになった。慣れた環境からの別離は自分の今までの考え方を変えるきっかけや成長するための挑戦が与えられただけ。大切な人との縁が切れても、それは新しいご縁を繋げるためのスペースができただけ。これらの変化でどんな新しい世界が開けるのか、新しい道が作られるか、ワクワクしているぐらいだ。

努力をしても尚、自分が楽しく過ごせないのであれば、それが引き際なのだと思う。

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最近、心の病を患ってしまう人が増えている。この世の中、SNSやアプリの発達、ハラスメントなどの周知により便利なことも増えたが、きっとどの世代の人からしても生きづらい世界なのだと思う。

生きづらい=不幸ではないが、匿名での誹謗中傷、ハラスメントの境界線/曖昧な指標など、多くの人々が日々悩みながら生活をしている。そして、それを表面に出している人なんてほぼいないだろう。自分の心の中だけで傷付き、どんどん疲弊させていく。どれだけ笑顔でいつも楽しそうに過ごしている人でも、少なからず人に話していない悩みや状況がある。限界が来た時でさえ悩みを打ち明けることができず、この世界から自分を消すという選択をしてしまう人がたくさんいる。芸能人に限った話ではないのだ。

悩みを抱えている人たちにとって、「置かれた場所で咲きなさい」は、どんなことがあっても、今の場所で輝けるように努力しなさいという意味に捉えられるかもしれないが、私はそうではないと思う。

置かれた環境が思い描いていたものと違ったとしても、その場所で挑戦できそうなことはやってみる価値があるということではないだろうか。最初から投げ出すのではなく、一度自分で切り開く行動をしてみること。それでも合わないと感じるなら、逃げてもいいのだ。

自分の人生を自分で苦しくさせる必要はない。

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自分の状況や年齢によって、この言葉の捉え方は変わってくると思う。だが、私は大輪の花を咲かせたいわけではない、誰の人目にもつかず、密かに小さく咲く花でも構わない。それでも、凛として咲く花の如く、自分の芯を揺るがない、誰かに勇気や希望を与えられる人になりたい。

誰かの心に寄り添って、少しだけでも、温かくさせられる人に。
新しいものへの出会いに胸躍らせながら私は今日も生きていく。