少しずる賢い私は、想いを寄せる彼の気の引き方を知っている。
子どもの頃から、私は常にハンカチを持ち歩いていた。
別に、親がそうしろと言ったわけではない。
何となく、肌触りの良いものを選んで、カバンやポケットに忍ばせていた。
特にお気に入りだったのは、小さな花の模様が付いた薄い生地のふわふわのハンカチ。
それで濡れた手をふいたりはしない。
だって汚れてしまうから。
それを触ると、不思議と気持ちが落ち着いた。
何か嫌なことがあった日も、何となく気分がすぐれない時も、そのハンカチを触っては、心を落ち着けていたものだ。
◎ ◎
ハンカチを持ち歩く習慣は、当たり前のように大人になってからも続いた。
子どもも生まれて、荷物は2倍にも3倍にも増えた。
そんな中で、ハンカチやタオルは必ずカバンに潜ませている。
昔のようにその手触りを楽しむことは少なくなった。
私の不安定な心を落ち着ける方法は、もっと他にあるから。
何となくレディの、一人の大人の女性の身だしなみとして、という意味しか今は持たない。
私は今、恋をしている。
その人と具体的にどうなりたいとか、将来のことをはっきり考えているわけではない。
それは現実的ではないからだ。いわゆるその時だけの関係を楽しむ相手だ。
その彼と夜、ひと時の逢瀬を楽しむ。そんな時にも、私は必ずハンカチをカバンに入れている。
昔のものを使い続けているから、少し子供っぽいデザインのものもあるかもしれない。
しかしそれは、お守りのようにないと困るものなのだ。
◎ ◎
その日も、いつものように彼と夜中のドライブを楽しんでいた。
もちろん私のカバンにはお守り代わりのハンカチがある。
「もうこんな時間か、そろそろ帰らなきゃな」
いつも時間を気にしている彼は、夜の遅い時間にあまり長居をしたがらない。
まるで私の顔を一目見れば十分とでもいうように。
それはとても悲しくて寂しいことだが、物わかりの良いふりをする私はもちろん嫌だなんて言えない。
多分またふと連絡は来るんだろうけど、今ここでさよならしたら次はいつ会えるか分からないな。
そんな漠然とした不安は、私たちの間でずっと居座り続けていた。
彼の前では、平気なふりをする。私は別に、あなたに会えない時もこの関係を何とも思っていないよ、と心の中で語り掛ける。
ふと、私の頭に一つのひらめきが浮かんだ。
◎ ◎
……このお守り代わりのハンカチを、わざと車内に忘れて帰ろう。
そんなことをしたところで、彼が振り向いてくれるはずもない。
彼が全てを捨てて私の元に来てくれるわけでもない。
そんなことは分かっていたが、少し試してみたい気持ちもあった。
少しでも、私の存在を大きく感じてくれるかもしれない、なんて。
「じゃあまたね、今日はありがとうね。おやすみなさい」
そう別れの挨拶を告げて、彼の車を降りる。
暗い車内の助手席の奥には、わざと置き忘れたあのハンカチ。
私が考える限りの、一番自然なかたちの忘れ物。
翌日、私からメッセージを送った。
「車にハンカチを忘れていったみたいだから、とっておいてほしい」と。
彼からは「分かった!」とだけ返信が来る。
普段めったなことではやり取りしないから、それがとても嬉しかったのを覚えている。
◎ ◎
それから約1カ月。お互い仕事やプライベートで忙しく、久しぶりに会うことになった。
その時の別れ際に、私が忘れていったハンカチを返してくれた。
彼の車内の匂いがした。
それは私の鼻を甘く、優しくくすぐった。
私はお守りを手にした瞬間、幸福な気持ちに包まれた。
手を離せばすぐに切れてしまう私たちの不安定な関係。
この先はきっとないと分かっていながら、束の間託した私のお守り。
今後は少しでも私たちの距離を縮めてくれることはあるだろうか。