バレンタインというと、思い出すのはどれも学生の頃の思い出だ。夜遅くにチョコレートを溶かし始めたあのときの思い出が、今でも鮮明に蘇ってくる。
一方で、大人になってからのバレンタインの思い出は、ほとんどない。唯一と言えるほどかすかに記憶をかすったのは、社会人1年目に割り当てられた、会社のならわしとしての役割だった。
私はバレンタインは自分へのご褒美を買うためにあるものだと認識している。
あげる人はおらず、単純に自分が楽しみたいから、満足したいからとチョコレートを購入した。スーパーの特設コーナーや、通販サイトのバレンタイン特集、出かけたついでに足を向けるデパートの催事場などを見て回った。
もちろんほとんど見ているだけ。購入はしない。どれも自分には高級に思えてしまうからだ。もらったら嬉しいけれど、自分で購入するには少々ハードルが高い。バレンタインの時期はつい財布の紐が緩んでしまう女子が多いけれど、私はいつも値段の札とにらめっこをしていた。
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社会人1年目のバレンタイン。いつものように過ごすはずだったのだが、職場からとある役割を割り当てられる。それが、部署の男性陣へ用意するチョコレートを買ってくるように、という役割だった。先輩たちから聞いた情報では、この役割が組織に入って最初の仕事なのだとか。
このときの私の感情を素直に表現すれば、「社畜の仲間入りを果たしたのだな」という思いだった。
当時、私の部署で働く同期は私を含めて6人。新人を抱える部署のなかでは多かった。
主体となって取り仕切っていた同期は、なぜか予定を合わせてできるだけ全員で選びに行こうとしていたのだ。そしてその計画は着々と進み、6人中5人でデパートの催事場へ向かうことになっていた。
大勢で行動することを苦手とする私は、とりあえず後ろをついていくことしかできない。はぐれないように、ずんずん進んでいく同期の後ろ姿を追いかけ、私は商品に目をやることができなかった。ぱぱっと商品を見定めては候補に入れていき、選択肢を絞っていく。知らない間に男性陣の好みを調べていた同期もいて、そこまで真剣に貢献しなければいけない行事なのかと疑問に思ったくらいだ。時間も迫っていたため、とりあえず候補のなかから最もイメージに合いそうなチョコレートを選んでいく。
3時間くらい滞在しただろうか。ようやく解散となった。
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後日、渡せる機会がありそうな人から順にチョコレートを渡していく。
特に色めく必要はなく、淡々と渡すだけだ。関わりの少ない人に渡すときにはやや緊張する。男性陣も、まんざらでない表情を浮かべながら、ペコリと一礼をしてその場をあとにするのだから面白くなってしまう。
学生の頃も儀式や作業だと思っていたバレンタインだが、社会人になるとなおさら儀式や会社の文化という色が強くなっている気がする。自分たちで楽しむだけではなく、職場でもバレンタインは色めき立つときであり、心を躍らせる風習として存在しなければいけないのはなんだか不思議だ。本当に需要がある行事かどうかはわからない。
ホワイトデーのお返しは、個人に向けて渡したバレンタインとは違い、部署に差し入れという形で返ってくる。まとめて1つで良いだろう、という職場ならではの考え方だ。
このお返しをもらったとき、私は考えてしまう。お返しの形は予想できたのだから、まとめてひと1つ渡せばよかったのではないかと。そうすれば、大箱ひとつを購入するだけなので、時間も予算もかけずに良いものが選べるのではないだろうか。さらに、男性陣はチョコレートを食べるのかさえわからない。他のクッキーや甘くないプレゼントのほうが喜ばれるのではないかと考えるときもある。
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社会人になって初めてのバレンタインは、会社のために役割を与えられたという記憶とともにある。会社、社会に慣れるために、仲間入りを果たすための最初の試練のようなものだと感じた。
この風習はおそらく職場ならではのもの。他のオフィスでも行われているかもしれないが、さすがに中止しても良さそうな気がした。バレンタインの文化を毎年受けている男性陣は、実際どのような気持ちでいるのだろうか。確かめてみたいものだ。