「キリスト教」、それは私の視野を大きく広げてくれた。我々日本人にとってキリスト教は非常に異国感があり、遠い存在、自分とはかかわりがないものだと思うだろう。それに加え、近頃の事件から宗教を恐れている人も多いのではないだろうか。
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私とキリスト教との出会いは小学5年生の時だ。当時キリスト教のことについて、イエス様という人がいるというざっくりした認識だった。私のクラスメイトに両親が牧師をしている人がいた。なぜか授業中にキリスト教の話になり、その子がイエス様はずっと私たちの傍にいるすごい人なんだ、という熱心な語り口調で語っていた。正直私はその子の熱狂的な語りから驚きや恐怖を感じていた。まさに「ドン引き」してしまったのだ。それからはキリスト教について特に考える機会はなく、綺麗に忘れてしまっていた。
その後私は中学受験を行い、中高一貫の女子校に通うことになった。なんとその学校はミッションスクールだった。入学式は驚きばかりだった。この時初めて、「礼拝」というものを受けた。この時に読まれた聖書の箇所はヨハネによる福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」だった。これが私とキリスト教との出会いだった。
この学校は朝礼と終礼時に礼拝を行うため、毎日礼拝で始まり礼拝で終わる生活だった。また中学1年生から毎週1時間「聖書」という授業を受け、主にキリスト教の歴史と聖書の物語について学んだ。日々の礼拝だけでなく、行事もキリスト教のものが多くあった。例えばクリスマス礼拝、讃美歌コンクールなど。このようにキリスト教に囲まれた中で私は学校生活を送っていた。
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実は私は最初全くキリスト教に興味はなかったのである。現在も熱心なキリスト教徒であるわけではないが。私がキリスト教に関心を持ち始めたきっかけは、非常に不純であった。それは日曜日に教会へ行くと貰えるお菓子目的だった。お菓子が大好きだった私は教会へ何度も通った。教会での礼拝は朝9時15分から行われていた。私の学校では、土曜日は2週に1回学校があり、日曜日は貴重な休みでありダラダラ昼まで寝ていたいという欲を抑えながら通った。高校生になると大学推薦のために毎週教会へ通うことを目標としていた私は渋々だが、毎週通っていた。
しかしある時、教会で礼拝を聞いているとある言葉が非常に胸に残った。それはエレミヤ書29章11節の「わたしは、おまえたちのために立てた計画をよく知っている。それは災いではなく祝福を与える計画で、将来と希望を約束する」である。この言葉は聖書の中では有名な箇所であり、私も何度も読んだことのある箇所だった。その時私は高校3年生で、受験に対する漠然とした不安があった。家では両親に当たり散らし、部屋に引きこもることもよくあった。何度も聞いたことのある箇所だったが、その時の牧師先生の説教の中で「受験で大変な日々を過ごしていると思うが、神が私たちの人生を計画してくれているので、心配しなくて大丈夫。自分の精一杯を尽くせばいい」と語ってくれた。自分は今のままでも十分頑張れている、ありのままでいいんだ、と自分のことを受け入れることができた。私にとってキリスト教はただ授業や習慣の中に組み込まれているものだった。その習慣となっているものから救われた私は、何でもできそうな気分だった。その後無事に大学入試を終え、現在に至っている。
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私は洗礼を受けていない。つまり正式なキリスト教徒ではない。しかし私にキリスト教は安心材料をくれたのである。いつも自分を責めてしまう出来事も、キリスト教を学んだ自分からすれば、こんなこともあるか、と楽観的に考えることができるようになった。失敗ばかりだったけどそれが自分であり、そのような自分でも神様はいつも自分の近くにいてくれ、守っていてくれていると考えると自然と心が楽になった。今年に入ってからすぐ悲惨な事件ばかり起きていた。このようなことが起きていると神などいるものか、と思うことが多い。私たちは神にすがることしかできないが、それでも神様は一人ひとりに最善の人生を歩ませてくれる。この痛みも神様からの賜り物であると思うしかない。宗教は恐ろしい部分も秘めていることもある。しかし一度聖書という世界で一番読まれている書物を拝読してみるのはどうだろう。きっとあなたにとって良いと思う言葉をたくさん見つけることができるだろう。