「日本は国ガチャ成功」、そんな言葉を見かけた。外国の治安や、衛生環境を嘆く動画についたコメントだったと記憶している。この2点において高いレベルを維持している日本は、国ガチャ成功なのだという。
「~ガチャ」なんて言葉が流行る10年近く前、当時高校生だった私は、「生まれた環境で人生が変わること、与えられる選択肢の数が異なること」を目の当たりにし、愕然とした。
アフリカの開発支援を行う団体の活動が夕方のニュースで紹介されたときのこと。日本で学びたいと願う学生への留学支援制度が紹介されていたが、人数には限りがあり、各国1人が対象として選ばれるらしい。
その時私の頭に浮かんだのは、「その国で2番目に優秀だった人」のことだった。
どう考えても自分より優秀な人に、望む機会が与えられない。その衝撃とやるせなさと、そんなことがあっていいのかと思う正義感に突き動かされ、大学では現代社会の成り立ちや、アフリカ大陸の歴史を学んだのだった。
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大学1年生の末、東アフリカのウガンダという国を訪れた。初海外どころか、飛行機に乗ったこともない。17時間のフライトの末たどり着いた場所は、赤道直下、乾いた土の匂いが新鮮な、想像よりもずっと自分たちの暮らしに近い街だった。
ホームステイをさせてもらう機会があり、学校帰りの少年少女と慣れない英語で話をする。お互いの言語を教え合ったり、流行っている音楽について語り合ったりするうち、将来の夢に話が及んだ。もちろん自分が受けた印象によって記憶に偏りがあることは断りを入れたいのだが、彼らの多くは口を揃えて、医者かスポーツ選手になりたいと言っていた。
小中学生くらいの年代だ。それが普通なのかもしれない。しかし、私の「人の選択肢は平等なのだろうか」という疑念を増長させるには十分だった。彼らが思い浮かべる選択肢は、日本の少年少女が同じことを聞かれた時に、頭に思い浮かべる未来の数と同じなのだろうか。
大学を卒業し社会に出て、世界史や国際文化とは全く関係のない仕事をしている。今回記憶を掘り起こして思うことは、社会で生きる人の多くは、みな限られた選択肢のなかから選びとって生きているのではないかということだ。
全員と言い切っていいだろう、人間は社会の中で生きていて、価値があるとか、誇れるとか、稼げるとか、ただ負けたくないとか、その時代によって変わる価値観のなかでニュルニュルと形を変えながら生きている。
何種類かぶら下げられた「職業」パンのなかから、前の人がかじりつかなかったパンのなかから、どれかを食いちぎる競走をしているのではないだろうか。
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社会に影響されて生きる個人という点では、私も、どこの国で暮らす彼らも同じなのだと思う。そして、職業選択という点においてはパン食い競走だとしても、誇れる自分であるために、何を抱きしめてどう生きるのかを考える時、私たちも社会から1歩自由だろう。
初めての海外渡航は、かけがえのない経験になった。今振り返って気づくことがあるように、この先何度でも思い出して、その度に学ぶことがあるのだろう。
日本と異なる点として最も新鮮だったのは、乾いた夏の匂いだった。