『黙って喋って』(ヒコロヒー/朝日新聞出版)

※朝日新聞出版社よりご恵贈いただきました。

人が自分や誰かを愛するのに、どうしてこんなにも勇気が試されるのだろうか。冒頭の「ばかだねえ」というタイトルの話を読んで、そんな感想を抱いた。自分を大事にしてくれず、浮気や嘘を重ねるようになった彼との関係を見直す葛藤を描いている。この話を読んで脳裏に浮かんだ、自分や人を愛する「勇気」という言葉が、読むにつれて重みを増した。

自分の気持ちを伝える勇気、と言ってしまえば単純。互いの好意を推し量る方法はいくらだってあるから、一度相手の好意がわかればあとは一歩踏み出すだけ。

ただ、ひとたび深い関係を築こうとすると、その「勇気」には困難が伴う。ありのままの自分をさらけ出す度胸、ありのままの自分に向き合う覚悟、自分の気持ちを100%咀嚼できないうちに相手に打ち明けてしまうエネルギー、それから打ち明けた結果、自分自身や身の回りが変わってしまうことへの恐怖。

どれもこれも、私が人生で一度だけ経験した恋愛において、ハードルとして幾度となく立ちはだかった。いや、恋愛だけではなく、仕事上で忖度を捨て、まっすぐ意見を伝える覚悟も、仕事への愛という意味で試されていた。それを一つひとつ自分で乗り越えたり、彼氏や周囲に助けられたりして、彼とも世の中のあちこちとも関係を深めていった。この短編集は、その一つひとつのハードルにスポットを当て、あとがきの言葉を借りれば「しゃんとせいよ」というはげましの言葉を送る、そんな作品に見えてならない。

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作中に出てきたシーン。本当の気持ちを伝えずに駅の改札で別れたこと、好きな人には見せられない姿を別の人には見せる関係を続けること、夫への言語化できない違和感を夫にぶつけること、自分の尊厳を脇に置くことで居心地の良さを得ること、自分らしさを捨て、恋人の好みに合わせること。

全部心当たりがあって、「しゃんと」できない。むき出しの自分を受け入れてもらえるかわからない不安が、「しゃんと」することを許してくれない。

恋愛とは異なるが、私は仕事の場で「自分の気持ち」を呑み込んだことがある。新入社員の頃に「女性がお茶を出したほうが取引先も気分が良いだろう」という理由でお茶出しを強要されたときには、何も言えなかった。本当の自分は「女性の役割としてお茶を出す」という行為が心の底から受け入れられなかった。ただ、目の前の上司に反論すればその時の関係が壊れる気がして、受け入れてしまった。

もしかしたら、この短編集に出てくる「生半可な」人々も、むき出しの自分をさらけ出した結果、今この瞬間が壊れるのが怖くて勇気が固まらなかったのかもしれない。それでも少し漏れ出る自分の気持ちが、今この瞬間を壊してしまうのだろう。

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恋愛に関して言えば、じつは心のどこかで共感できない部分がちょっとある。これも私事で恐縮だが、私が経験したたったひとつの恋愛では、丁寧な対話を重ねて互いのありのままを受け入れる努力を少しずつ積んできたからだ。

出会った頃の「いい女に見られたい」という虚栄心を脇に置き、心の壁を取り払ってきた。お互いを打ち明け、思いやれるように意識した。見栄っ張りな私がじつは片付けが大の苦手で、部屋には足の踏み場がないことも、彼が大学受験に失敗したことをずっと引きずっていることも、互いの一部であることを確かめた。そうすることで、自分が自分でいながら一心同体となってきた。

だから、この短編集に出てくるほとんどの人が、もどかしくも自分の気持ちを的確に伝えられないことに、ちょっとだけ歯痒さを感じたのだ。

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でもこれは、私がたまたまうまくいっただけなのかもしれない。

勇気を出してありのままの自分の気持ちを打ち明けることを積み重ねた果てに、傷ついた人もきっとたくさんいるのだろう。あるいは、打ち明けたいと思える人にまだ出会っていない人もいるかもしれない。

なぜ、ありのままの自分をさらけ出すのが怖いのだろうか。この短編集に幾度となく出てきた「息」の描写にヒントがあるように思えた。

我々を支配する空気と、「息」をしてそれを吸い込む我々。自分が自分でいるために、時にはこの空気と自分とを断ち切る必要がある。ただ、「息」をしないと我々は生きられない。「息」をしてそこにいる人と同じ空気を共有しなければ、我々は自分が自分である以前に、生きることもままならないのだ。

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言い換えれば、人と関わることでしか生きられない我々が、人と自己との境界を引かないと自分でいられなくなる矛盾。この矛盾が、自分を愛し人も愛することを難しくしているのかもしれない。

大人になるにつれ、空気を読んでちょっとずつ気遣いを覚え、それが行きすぎて日々心をすり減らす。そんな大人が自分も含め、そこかしこにいる気がする。

なんだかもどかしい。そう感じたら、新しくていい匂いがする空気を吸って、少し新しい自分として明日を過ごしたい。終盤の、伊勢丹の香水コーナーでの一幕を読んで、そう決意するのであった。

こんな方におすすめ!

恋・結婚・子育て。同じ世代の友達同士でも、それぞれ違う生き方を選びやすくなっている今の世。人との出会いとお付き合い、そして別れは十人十色。正解のようなものは自分で見つけるしかなく、時には身を削るような決心を伴う。そんなとき、友達にも家族にも言えないもやもやを抱えている人に読んでいただきたい。
似た悩みを抱える人のもがきを垣間見ることで心を軽くし、私の選択もこれはこれで良いんだと信じるために。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。