自分の幼少期の頃の話を聞くのが嫌いだ。
「あんたは本当に人見知りで困ったものだったよ」
両親、祖父母、親戚、小児科の先生。私の幼少期を知る大人たちは、みんな口をそろえてそう言う。母の足下にぴったりくっついて離れない子どもだった。祖父母に対しても、会う度毎回初めて会うかのような緊張ぶり。それを周りの大人たちが笑うから、ますます大人が怖くなり、私の人見知りは加速した。「人見知り」というのは悪いことなんだと、子どもながらに思っていた。
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しかし、今思い返してみれば、私の人見知りは大人限定だったように思う。私にとって、大人はみんな等しく「怖い存在」であった。その一方で、同世代であればコミュニケーションで困ることはなかった。友達関係も良好であった。だから、小学校から社会人になるまでは、自分が人見知りであると意識せずに過ごしてきた。むしろ、幼少期に大人たちが私のことを「人見知り」だと笑っていたから、無意識に自分で自分を「人見知り」の枠に押し込めてしまっていたような気さえする。
さて、社会人になり、大人と呼ばれて当たり前となった今の私はどうだろうか。学生ではなくなると、関わっていく人たちの幅がぐっと広がる。親ほど年上の人とも日常的に関わっていく機会が増えた。自分より年上の人と関わるのは緊張するけど、流石に何度も顔を合わせる人となれば、毎回カチコチになることはない。自分は今も人見知りなのだろうか。幼少期のような緊張や恥ずかしさはない。でも、初対面でも積極的に、どんどん話しかけていくのが得意です!と言えるわけでもない。
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今でも、「あ、何を話したらいいんだろう」、「気まずくなったらどうしよう」と思うことはたくさんある。そんなときに実践している会話法が二つある。一つは、相手が言ったことを繰り返すこと。しかし、全く同じように復唱するのではない。初対面で「○○さんとお呼びしてもいいですか?」と聞かれれば、「○○さんとお呼びしてもいいですか?」と同じ事を聞いたり、「名前の漢字はどう書くのですか?」と聞いたりする。「天気が良いですね」と言われれば、「春が近づいている気がしますよね」と返す。そこから、「桜のお菓子が出るようになったら食欲が止まらなくて」などと話を広げられれば大成功。相手の発した言葉を、似たような言葉で打ち返していくイメージ。繰り返しているうちに緊張が薄れていく事がほとんど。この壁さえ乗り越えてしまえば、案外どうにかなってしまうものである。
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もう一つは、先に自分からカミングアウトしてしまう方法。「私って、すごく人見知りなんですよ。初対面って緊張してしまいますよね」という具合に。相手が共感してくれれば、「人見知りあるある」の共感話が話のネタになる。共感してくれなくても、「子どもの頃人見知りで笑われちゃって」などと話し始めれば、それはそれで場を持たせることができる。特に後者は、自分の幼少期や苦手なことをさらけ出すことで、相手が親しみを持ってくれたり警戒心を解いてくれることが多く、重宝している手段である。
「人見知り」は悪いことではないと思う。でも実際、「損だな」と思うことは現実としてある。特に社会人になってからは、第一印象の影響力を実感する機会が増えた。必死になって治すものであるのか疑問に思っているし、治そうと思って治せるものでもない気がするけど、それをカバーする戦法は持っておいた方がいいのかなとは思う。苦手だからこそ、前もって武装を。世界中の人見知りさんの健闘を祈る。