私の視界は、ひどく狭い。

これまでも、これからもずっとそうだ。そもそも、どれだけ私が視界を広げたところで、そんなことでは到底及ばないくらいにこの世界は広い。だからきっと、私が自分の視界の劇的な変化を喜ぶこともまた、これまでも、これからもずっとあまりないのだろう。後ろ向きな視点のようではあるかもしれないが、むしろそれこそが私の希望として存在することだ。

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視界の狭さの自覚に、これといったきっかけはない。強いて言えば、何かを知ることが趣味だったからではないかと思う。

ものごとを知るのは楽しい。それは自分にないものを得ることであったり、逆に自分が何を持っていないのかを認識する機会になったりもする。これを繰り返すうちに、私は自らの視野の狭さと、それからどう足掻いても自分には追いつけない情報量を持つ“世界”というものへの魅力をより強く感じるようになっていったのだと思う。

知らないことがあるのは、とても楽しいことなのだ。それは、これから知って、近づいて、見える世界がもっと広がる可能性があることと同義であるように感じている。だから私は自分の視野の狭さを忘れずにいたいし、世界の広さに打ちのめされることを日々楽しみに生きているのである。

とは言え、最初からこんなものの考えをしていたわけではなかったはずだ。思い返してみると、「知ることが楽しい」と積極的に考えるようになったのは、創作活動に手を出し始めてからなのではないだろうか。

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私は創作活動が好きだ。何かを創作することも、何かを創作する人を眺めるのも、創作されたものをよく知ろうとすることも好きだ。

何かを創作するには、知識と研鑽が要る。より自分の理想に近いものを求めて進むうちに知識を得て、何が足りなかったのかを始めて自分で認識して、改善の努力をすることが必要だ。これは何事につけてもそうであると思うが、少なくとも私がこのことを知った要因としては創作活動が大きい。

誰かの創作物を楽しむのにも、知識は必要だ。最も単純なところでは、文中の知らない言葉を無視することができないことから、その必要性が発生する。

また、多くのものを楽しむということは、それだけ多くの人が抱える根本的な倫理観や価値観などを包摂した自我と間接的に向き合うことでもある場合が多い。自らの持つ倫理観や価値観などを信じていないと、自分のための自分の創作物にそれを反映させることが出来なくなるので、他者のそれに影響を受けるにしても自覚的であることが私にとっては望ましいのだ。そのためにも、多くの事柄を検討し、自らの立ち位置を明らかにしておく必要がある。

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創作活動に携わることがなければ、人の持つ権利についてもここまで関心を持つことはなかっただろう。作品を通して作者を見ようとされることは存外に多く、しかし作品は作者ではない。作者の自我は存在するが、そもそもそれは個人の主観を通して見た作品の向こうにあるものであって、それを通して作者を中傷する理由にはなりえない。

また、作中での描写のために、自らの倫理観や価値観を具体的にしていく必要があったので、実在する世間の出来事にも目を向けるようになった。他にも、著作権などの概念がわかりやすくなったと感じる。

自分が時間や金銭などのリソースを割いて大切に築き上げたものを守る権利の重要性は、自分でものを作ることの難しさを知らなければ、これほど身近に考えることはできなかっただろう。

私の世界は、こうしてじわじわと広がっている。世界が広がれば広がるほど、未知の領域の大きさに慄く。視野の広がりを感じたとしても自分の視野の狭さを忘れてはこの楽しみを味わえないと思うので、きっといつまでも私の視野は私にとって狭いままなのだと思った。