2023年10月。わたしはストレスから体調を崩し、通院生活を送りながら何とか仕事と家事をこなす日々を送っていた。SNSやテレビを見る余裕もなかったが、たまに開くインスタグラムで、ふだんはあまり投稿をしない友人が頻繁にシェアをしていることに気がついた。「また 『戦争』が始まってしまったらしい」とぼんやり認識していたパレスチナでのできごとについてだ。ずっと心に引っかかったまま数週間が過ぎ、ようやく心身の調子が戻ってきたころ、このニュースと向き合わなければと思った。 

ストーリーでシェアしてくれていた友人にDMを送り、今までの投稿をハイライトにまとめてもらった。パレスチナとイスラエルの歴史について一度調べたことはあったが、「なんだか複雑なんだな」と思っただけでそれ以上知ろうとしていなかった。改めて調べてみて、なぜ今回のことが「戦争」と呼べないのか、なぜ二国間の問題と言えないのか、そしてなぜわたしに関係があるのか、考え始めた。

◎          ◎

このニュースについて毎日考えてしまう理由は、自分が加害者である可能性と、黙認が意味することを自覚したからだと思う。自分の購入した商品や、支払った税金や、投資に回したお金が、誰かを傷つけ殺しているかもしれないという事実。社会や経済のしくみは、教科書では簡単に説明できるもののように書かれているが、当たり前に送っている生活も実際は複雑にからまり合った、見えない連鎖の上に成り立っている。それを全て知ろう、責任を持とうなどというのは机上の空論かもしれないけれど、知らなければ何かを感じることもない。この状況に声を上げず黙認するということは、自分や家族や友達が、生まれた土地を理由に迫害される社会を受け入れるということだ。

最近、「あなたのつらさはあなただけのもの」というようなフレーズをよく耳にする。まったくその通りだと思うし、わたし自身このような考えに救われたこともある。誰かが受けている傷と自分の苦しみを比較する必要はないし、誰かが苦しんでいる瞬間にあなたが幸福であることは、悪ではない。でも、暖かい部屋で、欲しいものがあればスマホ一つで買えるこの生活が、誰かの不幸の上に成り立っているのだとしたら。もしそうなら、この生活は守るに値するのだろうか。

◎          ◎

そんなことを考えたり、友人と話したり、SNSでシェアしたりしていると、どこからか声が聞こえてくる。「偽善」「自分の生活に余裕がある人の特権」「自分がヒューマニストだと思っているの?」「それよりも身近な人を大事にしたら」。誰かから言われたわけじゃない。自分が自分にささやいているのだ。

考えて、知る努力をして、声を上げるのも自分なら、その行動を疑い、否定してくるのも自分だ。参考になる記事や日本からできることをアップしては自分を疑い、「周りからもそう思われたらどうしよう」なんて考えがよぎって悶々とする日もあった。でも正直、それどころじゃないんだよな。今考えるべきなのは、わたしの行動が偽善なのかどうかではなく、罪のない人々が殺され続けているということ。

◎          ◎

戦争や災害、痛ましい被害をニュースで知るたびに思うことがある。それは「なぜ、わたしではなかったのか」ということ。人は生まれを選ぶことができない。たまたまこの国で、この時代に生まれた。住む家にも食べるものにも困らない境遇にわたしが生まれた世界と、そうでない世界。そこには一体どれくらいの違いがあるのか。

もちろん、考えたって答えが出るわけじゃない。「考えても仕方のないことは考えない」は、ポジティブでいる一つの秘訣だろう。けれど、生まれも価値観も異なるわたし達が共存するためには、一見「考えても仕方のないこと」を考え続けなければならない気がする。それを諦めてしまうようなポジティブさなら、喜んで手放してやろう。