ときどき考えてしまうことがある。想像力と実体験、人にとってより大切なのはどちらか。

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想像力は人間固有のものだ。テレビニュースや読書、人から伝え聞いたことから、たとえそれが自分の身に実際に起こったことでないことでも、苦しみや痛みはたまた喜びや楽しさを、我が事のように想像し、涙し笑ったりする。

想像力があると人生の幅が何倍にも広がる。想像力の豊かさはそのままその人の人生の豊かさだ。だから、想像力は大切なものだと思う。

翻って(実)体験はどうか。自分の身に起きたことでもないことに思いを巡らす想像力が無限であることに比べて、人間が体験できる物事の総量は決まっている。時間は誰にとっても有限であるからだ。

「悲しいんだろうな」「辛いだろうなあ」「楽しいに決まっている」「自分まで嬉しくなる」となる想像力。それとは反対に、実体験は絶対的に主観的なものだ。「辛い」「悲しい」「楽しい」「嬉しい」といった実体験に基づく感情は、劇的であり絶対的だ。

それゆえ実体験からくる言葉は圧倒的に強い。そして同じような経験をする人はいても、全く同じ経験をして人生を終える人はいない。体験の積み重ねはその人の個性そのものだと言えよう。

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想像力と実体験。どちらが大切なのかなんて一概に言えない。金子みすゞではないが、まあどちらも大切だよねなんて結論に至るのは簡単である。でもスマホ時代の現代に限って言えば、実体験の方がより稀少な気がするのだ。そう痛感した出来事がある。

高校を卒業した春休み、双極性障害Ⅰ型を発症した。どのような障害で、どのような経緯で発症したのか、闘病生活をどのように過ごし社会復帰したのかは、過去のエッセイでも書いているので(人間関係を絶って半年。「死にたい」と言った私を友人は止めなかった)、詳細は割愛する。

しかし、私は発症してからのこの10年間のうち、計4年間はひきこもりニートの闘病生活や入院生活を送った。このとき実体験として感じた感情は私が、その後人生を進める上で欠かせないガソリンとなっている。苦しかった。悲しかった。悔しかった。劣等感の塊だった。

10年かけて、私は発症して一番症状が重かった当時のことを、2,500字のエッセイとして言語化できるようになった。逆に言えば、実体験として経験した重すぎる感情を、言語化できるまでに10年の時間を要した。それほどの時間が必要な経験だったのだ。

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発症して3か月頃、当時とても仲の良かった男友達(今の彼氏である)に、発症してから初めて会うことになった。躁状態で地元を暴れまわった私を、いつも心配てくれていた彼に、迷惑をかけたことを謝りたかったのだ。

人気のない地元の公園で待ち合わせると、彼がいた。家族以外の人と会うのは久しぶりだった。
「迷惑かけてごめんね」
「いいよ、いいよ。で、どうした」
「私双極性障害っていう病気になった」

そう伝えると彼は手にしていたスマホをいじり、検索しスクロールし、たった20秒で、もう一度顔を上げ、こういった。
「ふーん、なるほどね。分かった分かった」
その20秒に、私は傷ついた。

もちろん、私が目の前にいるので長時間調べるわけにもいかなかったのだろう。それは分かっている。もちろん、躁状態の私を見て、たった20秒でぴったり思い当たる節があったのかもしれない。それは分かっている。

そして、彼はその後双極性障害の医療論文を読んでくれたり、再発防止に向けてたくさん勉強しアドバイスをくれた。彼は私に真摯に向かい合ってくれている。それは分かっているし、感謝してもしきれない。本当に本当にありがとう。

でも最初に障害を伝えたとき、私がまだ自分の苦しみを言語化することができなかったとき、彼がスマホでさっと症状を調べ、それがたった20秒だったこと。そしてそれでその3か月の私の苦しみ全てを20秒で想像しきり分かりきったかのように、「ふーんなるほどね」と言ったこと。

その20秒に、当時のナイーヴだった私は、しっかり傷ついてしまった。スマホで調べたことそのものではない。スマホでたった20秒調べたことで、想像で全てが分かったかのように言われたことに、傷ついてしまったのだ。私のこの苦しみを20秒で知り尽くした気になるなよ、と。

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被害者ぶってしまった私だが、翻ってスマホ全体のことに話を移せば、このようなことは珍しいことでもなく、私だって普段やっていることなのだ。

実際に目にしたもの/食べたもの/読んだもの/鑑賞したものでもないのに、とりあえず経験する前にレビューを確認して想像してみる。レビューを見て実際に自分で体験するにしても、自分で初めて体験したというよりも、それはどこか、レビューを「ああやっぱ〇〇なんだ」「あの人が言っていた△△ってこのことか!」と再確認するという、追体験的な意味合いが強い。分からないことがあればすぐにスマホで調べ、20秒どころか10秒だけ調べて知ったかぶりしていることなんて多々ある。

このスマホ時代の現代、スマホと想像力さえあれば、いつでもどこでも何度でも、なんでも知れ、なんにでもなれ、どこにでも行け、なんでも見れ、誰にでもなれる。それは現代の豊かさであり、想像力の豊かさだ。

でもそれは同時に、スマホ外での(実)体験の乏しさにもなりかねない。

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スマホ時間を少なくしろ。デジタルデトックスが必須。スマホから離れるべき。そういった言葉を言いたいのではない。スマホは今や新たなインフラであるし、スマホのない社会には最早戻れない。それは不可逆だ。スマホ世界が現実世界ではない、といった意見も私は持っていない。

でも、高橋源一郎さんの言葉を借りてあえて言おう。「体験が伴わない思想は、おおよそ頓挫する運命にある」と。そしてその上であえて問おう。あなたは、たった20秒のスマホ操作で、世界の全ての機微を知り尽くした気になっていませんか、と。

もしそうなら、それこそあなたのスマホを手放すときなのかもしれない。